この記事では、ロベルト・シューマンの晩年や最期について紹介します。
ロベルト・シューマンとは?
ロベルト・シューマンとは、ドイツのロマン派を代表する作曲家として知られています。
ピアニストを目指していましたが、右手を傷めたため作曲に専念します。
ロベルト・シューマンの代表曲には、「謝肉祭」や「トロイメライ(子供の情景)」「交響曲第1番『春』』」「交響曲第3番『ライン』」等があります。
交響曲から合唱曲まで幅広く作曲しましたが、特にピアノ曲と歌曲は高い評価を得ています。
ロベルト・シューマンの晩年
ロベルト・シューマンは晩年、精神障害を患っていました。
妻のクララと結婚したのは30歳の時で、クララはピアノの師であったフリードリヒ・ヴィークの娘でした。
結婚当初はクララの方がピアニストとして名声を得ていましたが、晩年にはシューマンも作曲家として不動の地位を築きます。
音楽活動は順調で夫婦仲も良好でしたが、シューマンは精神障害の症状が悪化し幻聴などの症状に悩まされるようになっていきます。
そして、1854年にライン川に自殺未遂をしました。
救助されたため命は助かりますが、妻や子供を傷つけてしまうことを恐れ自ら精神病院に入院することを望みます。
ボン郊外のエンデニヒにある療養所に入りました。
ロベルト・シューマンの死に様
療養所に入所してからロベルト・シューマンは、愛にあふれた手紙を妻クララに書き送っています。
また、シューマンの弟子であるヨハネス・ブラームスにも手紙を送っていて、作品の批評をするなど精神障害の兆候は感じられませんでした。
しかし、シューマンの症状は次第に悪化し、毒が入っているからと食事を拒否したこともあったようです。
興奮して部屋の中を歩き回ることもあり、衰弱していきました。
そして、ベッドに寝たきりになり46歳で亡くなります。
ロベルト・シューマンの死に様の信憑性
ロベルト・シューマンが亡くなる際、妻のクララが駆け付けます。
クララに看取られシューマンは息を引き取りました。
その際、「ぼくは知っているよ」という言葉を残したといわれています。
シューマンの弟子であるブラームスとクララは恋仲だったという話もあり、不貞の事実を知っていたのではないかという説もあります。
しかし、ブラームスはクララとシューマンの娘の一人に思いを寄せていたともいわれ、クララと不倫関係にあったというのは信憑性の高い話ではありません。
まとめ
ロベルト・シューマンは晩年、精神障害を患っていました。
療養所に入り妻のクララに看取られながら46歳で亡くなりました。