鈴木貫太郎は海軍の大将に上り詰め、太平洋戦争で日本が終戦を迎えた時には内閣総理大臣を務めていました。
鈴木貫太郎の晩年と最期について紹介します。
鈴木貫太郎とは?
鈴木貫太郎は第42代内閣総理大臣で、太平洋戦争の際には日本を終戦に導いた人物として知られています。
海軍軍人でもあり、日露戦争では目覚ましい活躍を見せ日本の勝利に貢献しました。
昭和天皇から信頼されており、侍従長を務めたこともあります。
77歳の時に内閣総理大臣に就任し日本を終戦へと導きますが、終戦とともに内閣は総辞職しました。
鈴木貫太郎の晩年
鈴木貫太郎が内閣総理大臣に就任したのは、77歳の時です。
日本は太平洋戦争の真っ最中で、戦局が悪化し敗戦に向かうのは避けられない状況に陥っていました。
鈴木貫太郎は天皇からの信頼が厚かったため、白羽の矢が立ったのです。
本人は首相就任を固辞していましたが、天皇から懇願される形で引受けました。
鈴木貫太郎は、自分の使命は戦争を終わらせることだと強く決意します。
ただし、敗戦が迫っていても徹底抗戦を主張する陸軍軍人は多かったため、彼らを刺激しないように終戦工作を行いました。
結局、ポツダム宣言が発表され、広島と長崎に原爆が投下されたことでポツダム宣言を受諾することになります。
天皇が玉音放送によって終戦を伝えた後、内閣は総辞職となりました。
天皇からはねぎらいの言葉をかけられ、涙を流したと伝えられています。
鈴木貫太郎の死に際
鈴木貫太郎が亡くなったのは、終戦から3年後のことです。
肝臓がんでした。
内閣総理大臣を辞職した翌年には、郷里である千葉で暮らしていたようです。
インタビューで、畑を相手にした生活をしていると答えています。
亡くなる間際は、穏やかな生活を送っていたことが伺えます。
鈴木貫太郎の死に様の信憑性
鈴木貫太郎は、生涯で2度も暗殺の危機にさらされました。
そのため暗殺されたと思われがちですが、病気で亡くなっています。
最初に暗殺されかかったのはニ・ニ六事件の時で、重傷を負いましたが命は助かりました。
2度目の暗殺未遂は内閣総理大臣の時で、日本が降伏することに不満を抱いた国粋主義者たちの襲撃を受けています。
間一髪のところで救い出されたので無事でした。
まとめ
鈴木貫太郎は、日本を終戦に導くという難題に取り組んだ晩年を送りました。
日本が終戦を迎えた3年後、80歳で肝臓がんのために亡くなっています。