「大久保長安」は能役者から成り上がり、徳川家康の側近となった異色の人物です。
晩年は石見銀山、佐渡金銀山を統括する鉱山奉行として活躍しました。
長安の死後、大久保家は不正な蓄財を疑われ断絶します。
「大久保長安」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈します。
「大久保長安」とは?
「大久保長安」(おおくぼながやすまたはおおくぼちょうあん)は1545(天文14)に猿楽者、大久保信安の子として生まれます。
(猿楽は江戸時代以降、能楽と呼ばれます)父、信安は猿楽者として武田信玄に仕えますが、長安はその才気を認められ家臣となりました。
甲斐国武田家で財政を司る、蔵前衆として働きます。
この頃から甲斐国の税務や鉱山開発に従事しました。
戦の折には物資や兵員の補給といった裏方を担当しています。
1582年(天正10)武田家は織田信長・徳川家康連合軍に攻められ滅びます。
武田家滅亡後は徳川家康に仕え、これまで培った財務の才をいかんなく発揮し、絶大な信頼を得ました。
長安は金銀鉱山で鉱脈を見分ける天才であり、家康に対して「自分こそ天下一の産金技術を持つ人物」と自己アピールしたことで知られています。
「大久保長安」の晩年
徳川幕府が開かれると大久保長安は石見銀山奉行を任じられ、多大な功績を上げました。
その後は佐渡金山奉行を勤め、産出した金で「徳川幕府の屋台骨を支えた」と言われています。
しかし大久保家の栄華は長くは続きませんでした。
晩年に金銀山の産出量が低下したことで、家康の信頼を失い、重職を次々に罷免されました。
財務官僚として有能であった長安を快く思わない勢力もあり、本多正信らと決定的な対立を深めていきます。
家康の寵愛と庇護を失った長安は1613年(慶長18)に病死、享年69歳でした。
「大久保長安」の死に様
大久保長安は駿府屋敷で、中風により死亡と記録されています。
中風とは脳血管障害の後遺症で半身不随、言語障害などを指しますが、一説には梅毒を患っていたとも伝えられます。
無類の財力を誇る長安は大変な派手好き、女好きで80人に及ぶ側女を囲っていました。
梅毒を疑われるのも無理からぬ所です。
「大久保長安」の死後の疑惑
大久保長安の死後、遺族は生前の金銀山事業における不正な蓄財を疑われました。
死後一月で幕府より不正の調査が入りましたが、長安の息子たち7人はこれを拒否、そのために切腹を命じられます。
蓄財調査から2ヶ月後、長安の遺体はほぼ腐敗していたにもかかわらず掘り返され、駿府城下で斬首の上、河原に晒されました。
姻戚関係にあった大名も連座を疑われ、改易されます。
開かれたばかりの幕府を大きく揺るがしたこの事件は、「大久保長安事件」と呼ばれました。
まとめ
大久保長安は実際に不正蓄財していたのか、明確な証拠は残っていません。
しかし屋敷からは5,000貫、現代の金額で5億円に相当する金銀が見つかり、70万両もの蓄財があったとされています。
長安の遺した財産は全て幕府に没収され、それすらも「徳川幕府の屋台骨」となりました。