「夢野久作」とは?
夢野久作の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「夢野久作」とは?簡単に説明
夢野久作は三大奇書の一つ「ドグラ・マグラ」の作者として有名な大正・昭和期の小説家です。
1889年に福岡で父・杉山茂丸、母・ホトリの長男として誕生しますが、両親がすぐ離婚したため、祖父母のもとで育てられます。
教育熱心だった祖父母の影響もあり、久作は慶應義塾大学に進学し文学を専攻しますが文学嫌いの茂丸の命により中退、その後は農園経営に手を出すものの結果は失敗です。
放蕩生活後は、出家、再度農園経営、新聞記者、童話作家を経て、ついに1926年「あやかしの鼓」で小説家デビューします。
「夢野久作」の晩年
夢野久作が小説家デビューした1926年には後に代表作となる「ドグラ・マグラ」の執筆をすでに開始しています。
この大作は完成まで約10年の月日を要し、久作の死の1年前に完成します。
小説家として脂も乗り、これからという時だっただけに久作の晩年と呼べるのは、この最後の1年だけと言えるかもしれません。
ただしこの最後の1年は借金返済のための資金繰りに奔走する1年でした。
「ドグラ・マグラ」が完成した年と同じ1935年(昭和10年)の7月、政界の黒幕と呼ばれていた父・茂丸が多額の借金を抱えて亡くなります。
久作はこの借金の返済に追われていたのでした。
「夢野久作」の死に様
久作は1936年(昭和11年)3月11日に脳溢血で死亡しています。
享年47。
代表作となった大作「ドグラ・マグラ」が約10年の年月をかけて完成してからわずか1年後のことでした。
この日、久作が父の借金返済のための資金繰りを任せていたアサヒビールの重役を迎えていた時のことです。
突如倒れ、そのまま息を引き取るのでした。
死因は父・茂丸と同じ脳溢血でした。
「夢野久作」の死に様の信憑性
久作が亡くなった1936年3月11日は朝から散髪、入浴して紋付き袴の正装に着替え、アサヒビールの重役である林博を自宅で出迎えています。
負債処理を任されていた林は精算書を久作に渡すために持参していました。
父の借金返済には心を痛め、疲労困憊していた久作はこれで借金問題が解決すると安心したのか、「今日は良い日で、あはははは・・・」と笑いながら話した瞬間、両手を高く掲げたまま後ろに倒れ、そのまま息を引き取っています。
知人の目の前での突然の死、父と同じ死因、心労とストレスで疲労困憊した肉体とその原因からの解放感から見ても死因の脳溢血の信憑性は高いでしょう。
まとめ
父・茂丸に翻弄された夢野久作の人生だったようです。
神秘めいた謎の作家という印象の強かった久作ですが、死に様を調べてみて少し身近に感じられるようになりました。
興味を持たれた方は大作「ドグラ・マグラ」の読破に挑戦してみるのもいいかもしれません。