「徳川光圀」とは?徳川光圀の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「徳川光圀」とは?簡単に説明
時代劇「水戸黄門」で有名な徳川光圀は1628年に水戸藩初代藩主の徳川頼房の三男として誕生しており、あの徳川家康の孫にあたります。
時代劇では庶民の味方を演じている黄門様も少年期は素行が悪く、不良仲間と行動を共にし、吉原遊郭に出入りしたり、辻斬りを行うなどの悪行を重ねています。
しかし、18歳の時に司馬遷の「史記」を読んで感銘を受け、その後心を入れ替えて勉学に打ち込み、1661年、父・頼房が死去すると、水戸藩第2代藩主となります。
そして「大日本史」の編纂事業を推進し、水戸学の基礎を作る人物となっていきます。
「徳川光圀」の晩年
1690年に光圀は隠居し、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所の西山荘で晩年を過ごします。
隠居するにあたっては、約60名の近臣が伺候し、その中には時代劇「水戸黄門」で助さんのモデルとされる佐々助三郎も含まれています。
隠居後も「大日本史」の修史作業は継続し、その他にも古墳の発掘調査を助三郎に命じたり、「救民妙薬」という製薬方法が書かれた本を出版したりと学術方面での活躍が目立ってきます。
しかしその一方で、1694年には江戸・小石川藩邸内で催された能舞興行の最中に重臣の藤井紋太夫を自らの手で刺殺するという事件を起こしており、少年期に垣間見せた蛮行を思い起こさせます。
そんな光圀ですが、死の2年前くらいから食欲不振が目立つようになり、晩年を過ごした西山荘で死を迎えることになります。
「徳川光圀」の死に様
光圀は1701年1月14日(元禄13年12月6日)に73年の生涯を閉じ、最後は眠るように静かになくなったと記録されています。
死因は胃がんの可能性も言われていますが、食欲不振以外に目立った症状が記録されていないことから、食道がんによる死去が最有力視されています。
「徳川光圀」の死に様の信憑性
徳川家康の死因は胃がんだったと言われており、家康は長年にわたる闘病生活で苦しむ様子が記録に残っていますが、光圀には食欲不振以外の症状が伝わっていないため、死因は胃がんではなく、食道がんでまず間違いないでしょう。
食道がんは欧米型の食生活の影響が大きいと言われていますが、光圀の食生活も当時としては先進的なものでした。
肉やワインを好んで飲食していたそうで、餃子やチーズを日本人として最初に食した人物としても挙げられています。
ラーメンを日本人として最初に食べた人物も光圀と言われていましたが、この説は近年新しい記録の出現で覆されました。
しかし、ラーメンも食べてはいたのは事実です。
これらのことから、光圀の死因が食道がんである信憑性はかなり高いと言えます。
まとめ
徳川光圀の死因は食道がんで間違いなさそうです。
なかなか波乱に富んだ人生だったようですが、晩年はがんになりながらあまり苦しまず、当時としては長生きされています。
ちなみに「水戸黄門」といえば徳川光圀と答える方が大半ですが、実は「水戸黄門」とは中納言・権中納言に任命された水戸藩主を指します。
そして水戸藩には光圀以外に該当者が6名いるため、「水戸黄門」は合計7名いることになります。