「周瑜(しゅうゆ)」とは?
周瑜の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「周瑜」とは?簡単に説明
中国の三国志における呉の大将軍と言えばまず名前が挙がるのが周瑜公瑾でしょう。
別名美周郎とも言われ、エリート出身で容姿端麗、頭脳明晰、武芸にも音楽にも秀でているというスーパーマンのような人物です。
江東を治めていた孫堅の息子の孫策とはそれぞれの妻が絶世の美女である姉妹だったため、義兄弟の関係にありました。
その孫策が急死すると、死の間際に後継指名した弟の孫権を重臣として補佐します。
なお、周瑜の名声を決定づけたのは赤壁の戦いでの曹操の大軍に対する大勝利です。
「周瑜」の晩年
孫策の死後、」周瑜は孫権に仕えます。
孫権も孫策の遺言である「軍事のことは周瑜に相談せよ」という言葉を忠実に守ります。
晩年の周瑜の功績としてはやはり赤壁の戦いによる曹操の大軍の撃破であり、三国鼎立を可能にするきっかけを作ったことです。
三国志演義では諸葛孔明の功績として書かれていますが、実際は周瑜の功績でした。
「周瑜」の死に様
赤壁の戦い後、周瑜は曹操が軍事行動を起こせないぐらいのダメージを受けていると判断して、その間に益州を占領し、関中の馬超と手を組んで襄陽を拠点に曹操を攻めるという計画を立て出発します。
しかし、その遠征の途上の巴丘で周瑜は急逝します。
36歳でした。
彼は死の床で自分の後継を魯粛にするよう指名して亡くなります。
正史三国志呉書によると、周瑜の死因は病気としか書かれておらず、詳しい死因は分かっていません。
一説によると、遠征の途上での戦いで流れ矢に当たり負傷した傷が元で亡くなったと言われています。
また、劉備による周瑜暗殺説というのもあります。
周瑜が死んで一番得するのが劉備だというのが根拠ですが、さすがにこれはガセでしょう。
「周瑜」の死に様の信憑性
正史三国志には周瑜が病死したとしか書いてありませんが、夷陵の包囲が解けた後、周瑜の軍と曹仁の軍が日にちを決めて戦っており、この時、周瑜が馬に乗って自ら敵陣に乗り込んだ話があります。
これによると、周瑜は左の鎖骨に流れ矢が当たり負傷してしまい、この傷が相当酷かったようです。
そのため確証はありませんが、この時の傷が死につながった可能性はありそうです。
しかし、呉国があった場所は長江流域の湿地帯のため疫病が発生しやすいことから疫病が死因の可能性のほうが高いと言えます。
まとめ
三国志演義で美味しいところは全部、諸葛孔明に持っていかれている感の強い周瑜ですが、紛れもなく周瑜は三国志を代表する英雄の一人です。
それゆえ、その若すぎる死はとても残念です。