「中岡慎太郎」とは?
中岡慎太郎の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「中岡慎太郎」とは?簡単に説明
中岡慎太郎は坂本龍馬と共に同じ土佐藩出身の幕末の志士として有名な人物です。
土佐藩脱藩後は京都、長州藩、薩摩藩など全国を奔走し、薩長同盟の成立や薩土盟約の仲介、大政奉還の実現などに尽力し、陸援隊隊長となって倒幕勢力の中心人物として活躍しました。
「中岡慎太郎」の晩年
元々は土佐勤王党に属し、脱藩後は特に長州藩と行動を共にしたことから尊王倒幕に向けた活動が主体になっていき、武力によって幕府を倒す勢力である強硬派の第一人者として志士たちの間にも浸透していきます。
「中岡慎太郎」の死に様
中岡慎太郎は大政奉還から1か月後の慶応3年11月15日(1867年12月10日)、京都の近江屋に隠れ住んでいた坂本龍馬を訪ね会談中に何者かに襲撃され、二日後に亡くなっています。
この日、慎太郎は同じ土佐藩出身の宮川助五郎の処遇について龍馬に相談するため、近江屋を訪ねていたのでした。
夕方頃に近江屋を訪れた慎太郎は龍馬と二人で密談し、やがて空腹を訴えた龍馬が懇意にしていた峯吉という少年に軍鶏鍋用の軍鶏を買いに行かせます。
それから間もなく、数人からなる刺客に襲われて龍馬はほぼ即死、慎太郎も即死こそ免れますが重傷でした。
二人ともメッタ斬りにされており、龍馬の身体には三十四か所、慎太郎の身体には二十八か所の刀傷があったそうです。
それでも慎太郎は隣家に助けを求め、隣家の屋根の上まで行き、そこで倒れていたところに急を聞きつけた土佐藩士らによって救出されます。
その後、懸命な治療が行われ、いったんは回復するものの、二日後の11月17日に容態が急変し、死亡します。
享年30。
「中岡慎太郎」の死に様の信憑性
近江屋事件の詳細は犯人の証言と事件後に現場に駆け付けた土佐藩士の証言で成り立っています。
事件の犯人は有力な説として佐々木只三郎をリーダーとする京都見廻組の七人によるものとされており、この七人のうち戊辰戦争唯一の生き残りである今井信郎の供述によるものです。
この証言を覆す確たる証拠がないため、今のところ京都見廻組犯行説が最有力ですが、今井の証言にも多くの謎があり、いまだに新選組犯行説や薩摩藩犯行説など多くの説が乱立しています。
極端な説だと、刺客の本当の狙いは中岡慎太郎であったとか、中岡慎太郎犯人説まであります。
まとめ
坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺事件として有名な近江屋事件は未だに幕末最大のミステリーとして取り扱われています。
薩長に多大な影響力を持っていた二人だけに、暗殺されずに明治以降も生きていたら・・・と思うと残念です。