「戸沢盛安」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「戸沢盛安」の死に際とは?日本の人物

戸沢盛安は、安土桃山時代に出羽角館を治めた戦国武将です。

勇猛果敢な戦いぶりを見せたことで知られますが、若くして亡くなっています。

戸沢盛安の晩年と最期について紹介します。

戸沢盛安とは?

戸沢盛安は、戸沢氏の当主であった戸沢道盛の次男として角館城で誕生します。

盛安には兄がいましたが、病弱だったため仏門に入っています。

それにより盛安は兄に代わって家督を継ぐことになりました。

家督を継いだ時は、まだ13歳だったといいます。

奥州で勢力を張っていた南部氏からの独立を目指し、戸沢氏の勢力を拡大するために尽力します。



戸沢盛安の晩年

戸沢盛安は、近隣の戦国武将である小野寺義道や安東愛季らと抗争を繰り返します。

小野寺氏に対しては、最上氏と連携して撃退することもありました。

1582年に安東愛季から侵攻された時には相手が3000の兵を擁しているのに対して1000の兵しか集められませんでしたが、3日間にわたる戦いの末に勝利を収めています。

そして北浦郡を平定し、小野寺氏の沼館城に侵軍する阿気野の合戦を起こしました。

小野寺氏配下の武将・小清水蔵人の首を自ら挙げるなど、活躍しています。

小野寺氏を破って上浦郡まで侵攻し、安東愛季とも唐松野合戦で激突し勝利しました。

この戦いにより、盛安は淀川城を奪っています。

盛安は角館において地盤を固め、確固たる地位を気付いたのです。

4万4千石を支配するまでになりました。



戸沢盛安の最期

戸沢氏は今でいう秋田県と山形県にまたがる地域・出羽国を支配した氏族ですが、盛安は中央政権との外交も積極的に行っていました。

織田信長に鷹や名馬を贈ったこともあります。

豊臣秀吉の時代になると、秀吉に恭順の意を示して4万4千石の所領を安堵されました。

秀吉に面会するために、盛安は商人に変装したといいます。

秀吉は小田原征伐を行っていたところでした。

盛安は出羽から兵を呼び寄せ、中村氏の軍勢に加わります。

しかし、病を患いあっけなく亡くなってしまいました。

享年25という若さだったといいます。

戸沢氏の跡は盛安の弟である光盛が継ぎました。

盛安には政盛という嫡男がいましたが、まだ幼少だったため光盛が継ぐことになったようです。

戸沢盛安をめぐる逸話

小田原征伐に参加するため豊臣秀吉に面会しようとした戸沢盛安は、その途中で増水した大井川を渡らなければならなくなりました。

家臣は明日にしようと盛安を止めたようですが、一刻も早く駆け付けたかった盛安は泳いで渡ったと言います。

そのため秀吉に対面した時は、全身ずぶぬれの状態でした。

秀吉はその行動に感心し、太刀を与えたといいます。

まとめ

戸沢盛安は、勇猛果敢な戦いぶりを見せ出羽国で確固たる地位を築き上げます。

豊臣秀吉が小田原征伐を行った時には、秀吉の元に駆けつけました。

秀吉からは所領を安堵されますが、病を得て亡くなってしまいます。

享年25という若さで、盛安の跡は弟の光盛が継ぎました。

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