真田昌幸は、戦国時代きっての知略に長けた武将と言われています。
真田幸村の父という方が、ピンと来る方も多いかもしれません。
そんな真田昌幸の晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。
真田昌幸とは?
真田正昌幸は甲斐の国の武田氏の家臣でしたが、武田氏が滅亡した後は織田信長・豊臣秀吉など主君を変えながら戦国大名にまで上り詰めます。
しかし、関ヶ原の戦いに敗れ高野山へ配流となりました。
真田昌幸の晩年
関ヶ原の戦いにおいて真田昌幸は、次男である真田幸村と共に石田三成率いる西軍に組します。
上田城において徳川秀忠の大軍を阻止する働きを見せましたが、西軍は敗北し昌幸・幸村親子も降伏しました。
領土は全て没収となり、高野山へ配流されることになります。
昌幸の正室は国許に残りましたが、次男の幸村とその妻女、16人の家臣が従いました。
昌幸は流人として高野山麓にある九度山で亡くなるまでの11年を過ごします。
生活は苦しく、金銭面でも困窮したいたといいます。
長男である信之に援助を依頼する書状が何通も残されています。
国許に帰りたいと願っていたようで徳川家康にも放免を嘆願していますが、家康はそれを許しませんでした。
真田昌幸の最期
真田昌幸は、流人生活が10年以上続いた九度山で亡くなりました。
亡くなる直前は病気がちで、気力も衰えていたと伝えられています。
晩年を過ごした九度山は寒さが厳しい土地であることは間違いありません。
死因についてははっきりしておらず、病死ということだけ分かっています。
享年は65歳でした。
真田昌幸にまつわる逸話
真田昌幸の晩年を支えたのは、長男の信之です。
関ヶ原の戦いで昌幸と次男の幸村は西軍に組しますが、長男の信之は正室が本多忠勝の娘であったことから東軍に味方します。
真田家を存続させるために、父と子で決別したともいわれています。
関ヶ原の戦い後、昌幸は徳川家康から死罪を命じられましたが、それを免れたのも信之と忠勝の助命嘆願があったからです。
高野山へ配流となってからも、信之は父と弟へ金銭的な援助を続けていたといわれています。
晩年は悲惨だったのか?
真田昌幸の晩年は戦国大名として活躍した頃から比べると雲泥の差ですが、10人以上の家臣がいるなど通常の流人よりもはるかに厚遇されていたようです。
昌幸・幸村親子の屋敷もそれぞれ造営されており、現在その建物は真田庵として観光スポットになっています。
和歌山藩から50石の扶持も支給されていて、長男の信之からの援助もあります。
金銭的には厳しいながらも、一定の水準以上の生活はできていたと思われます。
まとめ
真田昌幸は、武田家の家臣から戦国大名にまで上り詰めた戦国武将です。
非常に知略に長けた人物とされ、様々な戦で活躍しましたが、関ヶ原の戦いに敗れ配流となりました。
流人として11年という月日を過ごした後、最期は国許に帰りたいという願いも叶わず病を得て亡くなっています。