この記事では、竹鶴リタの晩年や最期について紹介します。
竹鶴リタとは?
竹鶴リタとは、ニッカウヰスキーの創業者として知られる竹鶴政孝の妻です。
イギリスのカウン家に四姉妹の長女として生まれました。
ウイスキー作りを学ぶためスコットランドのグラスゴー大学に留学していた政孝と知り合い、結婚します。
国際結婚だったため両家から反対されますが、二人は自分達の意志を貫きました。
1920年、リタは政孝と共に来日します。
NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」は、竹鶴政孝と妻のリタをモデルにしたテレビドラマとして人気になりました。
竹鶴リタの晩年
竹鶴リタの夫である政孝は、ウイスキー作りに人生を捧げた人でした。
そんな夫をリタも応援し、日本における本格的なウイスキー作りを陰ながら支え続けました。
竹鶴政孝は日本のウイスキーの父と呼ばれることがありますが、リタも日本のウイスキーの母と呼ばれることがあります。
リタは晩年、冬は神奈川県の逗子市で生活し、夏は北海道の余市で過ごすという生活を送っていました。
肺や肝臓を病んでいたため、療養生活を送っていたのです。
余市には現在のニッカウヰスキーとなる政孝が設立した大日本果汁がありました。
長年余市で暮らし竹鶴家と大日本果汁のために働いていたリタですが、冬の寒さは厳しく冬の間は逗子で暮らすことになったのです。
政孝とリタの間には子がなく、政孝の甥である威を養子に迎えていました。
威に息子が生まれると、リタは孫として大変可愛がったといわれています。
竹鶴リタの死に様
竹鶴リタは1960年、余市に戻ります。
そして、その数か月後に亡くなりました。
死因は肝硬変で、享年64です。
夫の政孝は人目もはばからず、取り乱して大泣きしたといわれています。
竹鶴リタの死に様の信憑性
竹鶴リタは亡くなる数か月前に、長年過ごし夫のウイスキー作りを支えた余市に戻ることを自ら希望しました。
死期を悟っていたのかもしれません。
思い出が詰まった自宅に戻りたいと思ったのでしょう。
リタは夫から最愛の妻として愛されていました。
リタの墓は余市蒸留所が見渡せる丘の上に建てられており、現在は愛する夫と共にその墓に眠っています。
墓ができあがるまで政孝は、リタの骨を収めた香炉を肌身離さず持っていたというエピソードも残されています。
まとめ
竹鶴リタは夫のウイスキー作りを支え続けますが、64歳で肝硬変により亡くなりました。