甲斐の虎「武田信玄」の侵攻を2度退け、後に「川中島の戦い」のきっかけともなった戦国大名「村上義清」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「村上義清」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「村上義清(むらかみ よしきよ)」とは?簡単に説明
「村上義清」は戦国大名としての「村上氏」最後の当主となった人物です。
天文17年(1548年)の「上田原の戦い」、天文19年(1550年)の「砥石(といし)崩れ」の2度に渡って、甲斐の虎「武田信玄」の侵攻を阻止しています。
ところが、後に武田勢の調略や家臣の離反により、「村上氏」勢力は徐々に削られていきました。
苦境の最中、「村上義清」はついに居城「葛尾城」を捨て、越後国(現在の新潟県)の「長尾景虎」(後の上杉謙信)を頼ることにします。
この事が、かの有名な「川中島の戦い」勃発の引き金となるのでした。
「村上義清」の晩年と最期
上杉家臣となった「村上義清」ですが、臣従して間もないにもかかわらず、越後国根知城を与えられ、城主となります。
旧領を「武田信玄」から取り戻すために、「川中島の戦い」では信濃州筆頭として参陣したそうです。
一説によれば、永禄4年(1561年)の「第4次川中島の戦い」で「武田信繁(たけだ のぶしげ)」(武田信玄の弟)を討ち取ったとも伝わっています。
上杉家臣時代の「村上義清」の動向については不明な部分が多く、元亀4年(1573年)の1月1日、越後国根知城にて享年73歳で病没したと残されています。
「村上義清」の死に様の信憑性
病死したとされていますが、死因については不詳となっています。
その後の村上氏
「村上義清」が上杉家に臣従した際、息子の「国清(くにきよ)」が「謙信」の養女を正室として娶り、「謙信」の養子として迎えられました。
この時、「国清」は断絶中であった上杉家の一族である「山浦氏」を継ぎ、「山浦姓」に改姓後、上杉家臣ナンバー2の地位を与えられます。
「村上義清」の死後、武田氏が滅亡すると「山浦景国(やまうら かげくに)」(=国清)は海津城を与えられ、「村上氏」の旧領に復帰を果たしました。
ところが、後に他国の大名や武将との内通を疑われたことにより、海津城は没収され、根知城へと戻されてしまうのでした。
まとめ
「村上義清」は戦国大名「村上氏」の当主として、同じく信濃国の戦国大名「武田信玄」としのぎを削り合いました。
2度に渡って「信玄」の侵攻を食い止めるも、その後、「村上氏」は衰退の一途を辿っていきます。
やがて、「村上義清」は居城「葛尾城」を捨て、越後国の上杉家に臣従することになりました。
これがきっかけで「川中島の戦い」が起こったとも云われており、「村上義清」は上杉家臣として参陣しています。
その後の「村上義清」の動向に関する史料は乏しく、元亀4年(1573年)1月1日に越後国根知城にて享年73歳で病没したとされています。