「天草四郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「天草四郎」の死に際とは?日本の人物

この記事では、「天草四郎」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「天草四郎(あまくさしろう)」とは?簡単に説明

「天草四郎」とは、江戸時代初期のキリシタンであり、1637年に起きた一揆「島原の乱」の最高指導者です。

洗礼名は「ジェロニモ」、後に「フランシスコ」となっています。

「益田好次」の子として生まれたとされていますが、詳しい出生については不明なようです。



「天草四郎」の晩年と最期

1637年(寛永14年)、幕府のキリシタン弾圧に対し、キリシタンたちは反発。

10代でありながら、圧倒的なカリスマ性を持つ「天草四郎」を総大将に戴き「島原の乱」が勃発します。

この時、「天草四郎」は白い絹の着物と袴をまとい、額に小さな十字架を立て、御幣を手にキリシタン軍を指揮していたという描写が記録に残っています。

キリシタン軍の抵抗は激しく、一度は幕府軍を退け、大将の「板倉重昌」を討死させました。

しかし、3ヶ月に及ぶ籠城戦の末、食料と弾薬が尽きた原城は陥落、幕府軍の第二陣による総攻撃により、キリシタン軍は壊滅させられてしまいます。

「天草四郎」は幕府軍の肥後細川藩士「陣佐左衛門」に討ち取られたと伝わっています。

この「島原の乱」ですが、日本史上最大の一揆であり、同時に幕末より前に起こった最期の内乱とされています。

これより、約230年のあいだ、記録上、日本で大規模な内戦が起こることはなくなります。

そして、「島原の乱」の1年半後、日本は鎖国体制を迎えることになるのでした。



「天草四郎」の死に様の信憑性

キリシタン軍を鎮圧したものの、幕府側は「天草四郎」の容貌を全く把握していませんでした。

幕府側には「天草四郎」と同年齢ぐらいと見られる少年の首が多く持ち込まれたものの、どれが「天草四郎」の首であるか分からなかったそうです。

そこで、幕府側は捕えていた「天草四郎」の母「マルタ(洗礼名)」に首を確認させ、「陣佐左衛門」が持ち込んだ首を目にしたところ、その場で泣き崩れました。

これにより、「陣佐左衛門」が持ち込んだ首が「天草四郎」とされたそうです。

まとめ

「天草四郎」とは、江戸時代初期のキリシタンであり、1637年(寛永14年)に起きた「島原の乱」の際、最高指導者として、キリシタン軍を率いたと云われています。

幕府軍を一度は退けますが、その後、総攻撃を受けたキリシタン軍は壊滅し、「天草四郎」も討死しました。

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