この記事では、ウラジーミル・レーニンの晩年や最期について紹介します。
ウラジーミル・レーニンとは?
ウラジーミル・レーニンとはロシアの革命家及び政治家で、世界で初めて社会主義国家のソビエト連邦を樹立した人物として知られています。
学生時代から革命運動に身を投じ、シベリア流刑や亡命生活を経てボリシェビキ(ソ連共産党)を創設します。
ボリシェビキを率いて十月革命を成功させました。
社会主義政権を樹立すると、人民委員会議長としてソビエト連邦の建設に尽力しました。
また、マルクス主義を発展させた人物でもあります。
ウラジーミル・レーニンの晩年
ウラジーミル・レーニンがボリシェビキを率い、十月革命を成功に導いたのは1917年のことでした。
1918年にはボリシェビキによる独裁体制を確立し、ボリシェビキはロシア共産党となりました。
反対派に対しては、大規模な弾圧を実施しています。
また、ロシアの内戦で勝利を収めるとポーランドに侵攻して革命の機運をヨーロッパに広げようとしますが、それは失敗に終わりました。
また、レーニンの晩年は後継者と目されていたスターリンとジョージアの民族問題などを巡って激しく対立します。
スターリンを党書記長から解任するように求めたといわれています。
しかし、1922年にレーニンは脳卒中を起こし、麻痺や失語症といった症状が残りました。
政治家としては致命的で、仕事に復帰しますが再び脳卒中を起こしています。
ウラジーミル・レーニンの死に様
1923年に、レーニンは3回目の脳卒中を起こしました。
すると、意志の疎通も困難になり、政治生命は絶たれてしまいます。
そして1924年には邸宅において意識不明となり、そのまま亡くなりました。
享年53です。
ウラジーミル・レーニンのの死に様の信憑性
ウラジーミル・レーニンの死因は、脳卒中といわれています。
しかし、スターリンによって毒殺されたという説もあります。
レーニンはスターリンの排斥を訴えていましたが、レーニンの死によってその事実は公表されることはありませんでした。
レーニンが晩年、たびたび発作を起こすと、自分の息のかかった医師を囲い込んでレーニンに行動を制限したともいわれています。
ただし、毒殺説はスターリンのライバルがわざと流布したという話もあり、信憑性の高い話ではありません。
何度も発作を起こしていたことを考えると、死因は脳卒中と考えるのが自然です。
まとめ
ウラジーミル・レーニンは脳卒中で倒れ、53歳で亡くなりました。