この記事では、「ルイ16世」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「ルイ16世」とは?
ルイ16世はフランスのブルボン朝の国王で、ハプスブルク家のマリー・アントワネットを妻としたことでも知られています。
ルイ15世の孫で、父は亡くなっていたためルイ15世の跡を継いで1774年にフランス国王となりました。
即位した当初からフランスは財政難に陥っていて、アメリカ独立革命に関わったことでさらに財政は悪化しました。
在位中にフランス革命が起き、退位させられています。
「ルイ16世」の晩年
1789年にフランス革命が勃発すると、ルイ16世は家族と共にヴェルサイユからパリに連行されました。
妻のマリー・アントワネットとの間には4人の子どもが生まれますが、2人は夭折しています。
そして1791年にルイ16世は、国外から脱出する計画を立てます。
マリー・アントワネットの故郷であるオーストリアに行くはずでした。
しかし、国境に近いヴァレンヌというところで見つかってしまい、一家はパリに連れ戻されました。
ヴァレンヌ事件と呼ばれるもので、これにより国王としての権威は完全に失墜してしまったのです。
ルイ16世は幽閉され、家族とも会えなくなりました。
王政の廃止が決定し、ルイ16世の処遇を巡って裁判が行われます。
そして、裁判の結果は有罪に問われ、死刑を宣告されました。
裁判では、ルイ16世の処刑に反対した人も多かったようです。
ヴァレンヌ事件までは国王の人気は決して低くはなかったので、もし逃亡せずにいたら死刑にはならなかったかもしれません。
「ルイ16世」の死に様
ルイ16世は、1793年1月21日に亡くなりました。
革命広場において、ギロチンにより斬首刑に処せられたのです。
享年38でした。
ギロチンは2本の柱に刃を吊るし、その刃で首を切断するものです。
「ルイ16世」の死に様の信憑性
ルイ16世は、亡くなる前日には家族との面会が許されました。
処刑される日、革命広場には2万人もの人が詰めかけたといわれています。
集まった人々に対し、「私は無実の罪で死ぬ。
私を死に追いやった者を私は許そう」と語ったといいます。
その後、妻であるマリー・アントワネットもギロチンによって処刑されました。
まとめ
ルイ16世は在位中にフランス革命が起こり、国外に逃亡しようとしました。
しかし、見つかってしまい連れ戻され、裁判によって有罪となり処刑されます。
享年38です。