燃える闘魂アントニオ猪木の死因とは?
「アントニオ猪木」とは?簡単に説明
アントニオ猪木こと猪木寛至は昭和18年に神奈川県横浜市で誕生した日本のプロレスラーで、政治家としても知られています。
プロレスファンからは「燃える闘魂」というキャッチフレーズで親しまれていた人物で、2番目の妻は女優の倍賞美津子さんでした。
13歳の時に移民として一家でブラジルに渡り、コーヒー農園などで過酷な農作業を強いられながらも、猪木は大きな体格を活かして陸上競技選手として現地の大会などに出場していました。
昭和35年にブラジルサンパウロにプロレスの興行で訪れていた日本プロレス界の父とも言われていた力道山に見初められたことにより、プロレスラーとして歩み始めた猪木は、同年の秋にプロレスラーとしてデビューを飾り、昭和37年にアントニオ猪木というリングネームに改名しています。
師力道山の死後、新日本プロレスを立ち上げた猪木は、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスと共に爆発的なプロレス人気を支え、昭和54年にはプロボクシング世界ヘビー級チャンピオンであるモハメドアリと異種格闘技戦を行って引き分けています。
プロレス引退後は政界へ進出し、湾岸戦争でイラクに監禁されていた日本人の人質を解放するなどの活躍をみせ、プロレスを超えた真のヒーローとして認知されていきました。
様々な場面で「元気ですかー」と国民を叱咤激励し続けていた晩年でしたが、令和4年10月1日、79歳の人生に幕を下ろしています。
「アントニオ猪木」の死に様
アントニオ猪木は、全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心不全のため2年を超える闘病生活の後に79歳で死亡してしまいます。
全身性トランスサイレチンアミロイドーシスとは、様々な臓器にたんぱく質が付着して本来持つ臓器の能力を低下させてしまう病気で、現在においても効果的な治療方法がない難病として指定されています。
令和2年に心アミロイドーシスと診断されてからも、猪木は精力的に活動を続けますが、臓器が正常に機能しないことにより食事をとることさえ難しくなっていき、日に日にやせ細っていく姿を隠し切れないほどに病状は進行していきます。
猪木が死を迎える1週間ほど前までは自身のユーチューブチャンネルにて、心身ともに衰弱している姿を隠すことなく闘病生活を報告しており、ベッドに寝たきりの猪木が車いすに座ってアイスのガリガリ君を食べるシーンなどが映し出されました。
身長190cm体重100kgを超える現役当時の立派な体格を知っている昭和のファンたちからは、やせ細り変わり果てた猪木の姿を見て少なからずショックを受けましたが、現役時代と変わらず病気とも闘い続けるその真摯な姿には多くの人が心を動かされました。
全身の激しい痛みを併発すると言われている難病を患いながらも、最期は安らかに旅立っていったという関係者の証言に、ファンは安堵するとともに大きな悲しみと失望に包まれました。
「アントニオ猪木」の死に様の信憑性
日本において難病に指定されている心アミロイドーシスを患ったアントニオ猪木は、自身の弱った身体やほぼ寝たきりの闘病生活をあえてさらけ出し、自身の人生においても最期まで「燃える闘魂」を演出し続けました。
戦後の高度成長期のスーパーヒーローであった猪木は、現役時代は常に人の目を意識していたと言われており、現役を終えた後も政治の世界で躍進しつづけることになります。
難病を患ってからも、TV番組やイベントなどに出演し続けた猪木は、既にどこへ行くのにも車いすを必要としていましたが、イベントが始まるや否や、本来は立てるはずのない体調にもかかわらず、車いすから突然立ち上がってファンの前まで歩き出し「元気ですかー!」といつものように元気な姿を披露していました。
治療法がない難病のため、安静にしておくこと以外は処置をすることができない状況でしたが、闘病中に仲間たちを招いて、自身は食べることができないながらも食事会を開催したり、もし元気になったら日本をまた元気にしたい、などという夢を語っている姿をファンに見せ続けてくれました。
「アントニオ猪木」の小ネタ等
湾岸戦争当時、政治家になったばかりのアントニオ猪木は、イラクに監禁されていた日本人の人質を解放させるために奔走しますが、日本政府の強力を得ることができませんでした。
政治家の誰も人質解放に消極的な中、猪木はプロレスラー時代の自身のツテを使って当時のトルコの大統領へ懇願し、イラクまでのチャーター機を自費で手配して、人質を解放することに成功しています。
まとめ
燃える闘魂アントニオ猪木は、プロレス時代は様々な敵と闘い、政界に進出後は世界の平和に尽力し、最期は難病と闘い続けた真のヒーローと言えるでしょう。