「ジョン・レノン」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「ジョン・レノン」の死に際とは?世界の人物

1980年12月8日の夜、ビートルズのメンバーだったジョン・レノンが自宅前で銃撃され殺害されました。

犯人はテキサス州生まれの元警備員マーク・チャップマンでした。

「ジョン・レノン」とは?簡単に説明

ジョン・レノンは、1965年にMBE・大英帝国第5級勲位を受章したイギリスのバンド、ビートルズの一員で、シンガーソングライターやギタリスト、キーボディストであると共に平和運動家としても知られていました。

1970年にビートルズは解散しますが、その後ジョンはアメリカを主な活動拠点としてソロ活動を開始します。

1975年からは、約5年間音楽活動を休止して、1980年に活動を再開させますが、同年12月8日ニューヨークの自宅アパート前において銃撃され死亡してしまいます。



「ジョン・レノン」の晩年

1980年12月8日にマンハッタンの自宅アパートメント玄関付近で狂信的なファンによって射殺されたジョンレノンは、実はこの時点で既に、音楽業界内でのポジションはかなり地に落ちていました。

この突然の死を迎える数週間前にリリースされたばかりの復帰作「ダブル・ファンタジー」は、妻であるヨーコ・オノとの共作でしたが、「ローリング・ストーン」誌や「ザ・タイムズ」紙をはじめとする大手メディアからは、酷評されまくっており、業界関係者たちはジョンレノンをただの流浪の人と評価していたのです。

しかしながら、突然の死を迎えたジョンレノンは、死の直後から殉教者として扱われるようになり、皮肉にも「ダブル・ファンタジー」はヒットすることになります。

彼の死後、遺作は12カ国を超える国々でナンバーワンを獲得し、1981年のグラミーでは最優秀アルバム賞を受賞します。



「ジョン・レノン」の死に様

1980年12月8日22時52分、チャップマンは、ジョンに向けて拳銃から5発のホローポイント弾を発射しました。

この拳銃は38口径の特殊なリボルバーで、1発目は命中せずジョンの頭上を通過しますが、2発目はジョンの背中の左側に命中し、残りの2発は左肩を突き抜けます。

そしてこれらのうちの1発が彼の大動脈を損傷し、これが致命傷になってしまったのです。

ジョンは、ダコタ・ハウスの階段を6段上がって玄関に入り「撃たれた」と言って倒れこみます。

一方、ドアマンは銃撃犯であるチャップマンから銃を奪い取りますが、この銃撃犯の傍らにはついさっきジョン本人からもらったばかりのサインが入ったダブルファンタジーが落ちていました。

駆け付けた警官は、救急車を待っていられないほどの状況を目にし、自分の自動車にジョンを乗せて病院へ連れて行きます。

ほどなく、最寄りのルーズベルト病院に到着しますが、その横には時間と共にヒステリックになっていくヨーコがずっと付いていました。

病院到着後まもなく、ジョンは心肺停止状態に陥ったので、約20分ほど医師が心臓マッサージを試み、続けて輸血や手術をおこないましたが、1980年12月8日23時07分、処置の甲斐もなくジョンは臨終を迎えます。

「ジョン・レノン」の死に様の信憑性

妻であるオノ・ヨーコとともに1960年代中ごろから、ベトナム戦争反対の反戦運動における中心人物となっていたジョンレノンは、自身の殺害事件直後には、CIAによって暗殺されたのではないかという噂が上がりましたが、逮捕された殺害犯マーク・チャップマンによる「有名になりたくてジョン・レノンを殺した」という供述により、これらの暗殺説は否定されています。

この痛ましい事件は、チャップマンが精神的に不安定だった時期にジョン・レノンの伝記を読んだことで、自分の境遇との決定的な違いに怒りを覚えた彼が犯行を犯してしまった。

という経緯が発表されています。

まとめ

世界中で知らない人の方が少ないのでは?と言われるほど有名なアーティストだったジョン・レノンの殺害は、当時、数多くの人々に衝撃と悲しみを与え、ジョンの死亡を知った熱狂的なファンが、少なくとも3人も後を追って自殺するという痛ましい事件も起きてしまいました。

かつてジョンが住んでいた自宅の近くのセントラル・パークには、ストロベリー・フィールズと呼ばれる祈念の区域が開かれ、ビートルズを生んだイギリスのリヴァプール市では市内の空港を「リバプール・ジョン・レノン空港」と改称するなど、ジョンレノンが追い求め続けた平和を愛する精神は未だに受け継がれています。

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