ポル・ポト派は知っていても人物像は意外に知られていない?
「ポル・ポト」の散り際とは?この記事ではポル・ポトの晩年と散り際を解説していきます。
「ポル・ポト」とは?簡単に説明
ポル・ポト派はニュースで良く聞く言葉だと思います。
しかしその言葉の源となった「ポル・ポト」氏の実像は意外に知らない人は多いでしょう。
第2、3民主カンプチア首相であり、クメール・ルージュ(赤いクメール人)の言葉が示す通りの赤化、共産主義者。
カンボジア共産党の武装組織がいわゆる悪名高き『ポル・ポト派』になります。
民主カンプチア首相に就任してからの苛烈な施策は独裁者かつ人類史上に残る反知性主義として現在でも語り継がれています。
「ポル・ポト」の晩年
ベトナム戦争時のアメリカ軍カンボジア進行に乗じて勢力を拡大。
我が世の春を謳歌していたものの78年12月末からのカンボジア・ベトナム戦争では苦汁を飲むことになりました。
しかし米国と中国からの支持を取り付けると反ベトナム同盟を結成し、ベトナムひいてはその影で暗躍するソビエト連邦と闘うことになっていきます。
93年には立憲君主制が導入されるも、ポル・ポト派は選挙には加わらずに静観。
今度は連立政権との闘争を画策。
闘い続けるもポル・ポト氏の求心力は失われていくことになり、闘いは組織内での抗争化していきました。
「ポル・ポト」の死に様
1998年4月15日に死去、死因は心臓発作によるものでした。
共産主義圏の国の要人が多々心臓発作という名の不審死をしているのは言うまでもありません。
ポル・ポト氏の場合も毒殺説や服毒自殺など諸説がありますが、真偽は不明です。
「ポル・ポト」の死に様の信憑性
ポル・ポト氏の遺体及び火葬については動画サイトで見ることが2023年1月現在でも可能です。
ただしその遺体の顔からは何もわかりませんし、毒殺、服毒自殺の根拠となる爪の色についても確認はできませんでした。
また死の直前のインタビュー映像に残されている通り、ポル・ポト氏の髪の毛は白髪でしたが、火葬直前の遺体は黒髪になっている不審な点も見受けられます。
97年6月に「タ・モク」に捕らえられて以降、ジャングル生活が続いていました。
タイ国境に近いアンロンベンからさらに北の村チョアムには出入国管理場もあり、ここからタイへと逃走を伺っていたともされます。
具体的には髪の毛を染めて変装。
逃走を図ろうとするも住み家の近くに着弾があり、そのショックで亡くなったという話もあります。
勿論の真偽は不明。
逃走すると見せかけたうえで口封じのため毒で処分した。
責任を全てポル・ポト氏になすりつけようとしての毒殺など諸説ありますが、クーメル・ルージュの幹部は全員既に亡くなっていることもあり、今後真実が語られる可能性は低いと言えるでしょう。
まとめ
「ポル・ポト」氏は1998年4月15日に死去。
死因は心臓発作、69歳没。
晩年は支えられないと歩けないほどに弱っており、突然の死を迎えてもおかしくはありませんでした。
ただしタイの軍部関係者によれば間違いなく毒によるものだとされています。
死去翌日に火葬、常に白髪だったのに遺体の髪は黒に染められていた、爪が変色していた等、不審・疑問点の残る死だったのは間違いありません。