「袁世凱」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「袁世凱」の死に際とは?世界の人物

袁世凱は、中華民国の初代大総統となった人物として知られています。

袁世凱の晩年と最期を紹介します。

袁世凱とは?

袁世凱は、軍人や官僚を多く輩出した名家に生まれます。

袁世凱自身も官僚を志し科挙の試験を受けますが、合格することはできませんでした。

そこで軍人を目指し、朝鮮に渡って軍事的な手腕を発揮します。

日清戦争に敗れると軍の近代化を推進し、新建陸軍を組織しました。

辛亥革命が勃発すると、軍事の全権を委ねられます。

1911年に内閣総理大臣となり、清朝の宣統帝を退位させました。

中華民国臨時大総統となり、1913年に正式に大総統に就任します。



袁世凱の晩年

袁世凱は大総統になると、国民党を弾圧しました。

国民党の実質的な指導者であった宋教仁を暗殺します。

宋教仁は、議院内閣制の必要性を訴えていた人物です。

最高権力者の権限は制限するべきという考えを持っていました。

それに対して袁世凱は、最高権力者が強権をふるうことが国をまとめ上げることになると考えます。

これは袁世凱だけに限ったことではなく、中国の伝統的な思想といえるでしょう。

しかし、宋教仁の考えは当時の人々にとって斬新で、多くの支持者を得ます。

袁世凱ははじめ宋教仁を懐柔しようとしましたが、結局宋教仁を殺してしまいました。

その後は自らの権力を強化し、政権に反発する孫文らが第二革命を起こした時も武力を持って鎮圧しています。

独裁的な政治を行い、ついに帝政を復活して自らを皇帝と称しました。

ところが各地から反発の声が上がり、批判の声が強まったため帝政を廃止する事態となったのです。



袁世凱の最期

袁世凱は1916年、帝政を取り消す宣言をするまでに追い込まれます。

一度失ってしまった権力が元通りになることはありませんでした。

失意の中病に倒れ、そのまま亡くなってしまいます。

死因は尿毒症といわれています。

享年58でした。

袁世凱をめぐる逸話

袁世凱は中国では、悪役のような扱いをされています。

漢民族を裏切る「漢奸」と呼ばれることもあります。

そこまで嫌われる要因はいくつかあり、最も大きな理由は国父と慕われる孫文を弾圧したことです。

第二革命でっ反乱軍を率いていた孫文や李烈鈞、黄興らは日本に亡命しています。

自ら皇帝に即位したことも批判の的となっています。

しかし、近年は袁世凱の功績にも目を向けられるようになってきました。

軍の近代化を進めたり、学校制度を整備したりもしているのです。

袁世凱の家族

袁世凱には、正妻の他に9人の妾がいたといわれています。

子どもも多く、17男14女をもうけています。

中国では地位の高い男が妾を持つのは普通のことだったようです。

まとめ

袁世凱は中華民国の初代大総統となり、国民党の弾圧を行いました。

帝政を復活させ自ら皇帝となりますが、周囲の反発が激しく帝政は取り消さざるを得なくなります。

失意の中で病に倒れ、尿毒症によって亡くなりました。

享年58です。

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