「ジュール・ビアンキ」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「ジュール・ビアンキ」の死に際とは?世界の人物

F1の新星ジュールビアンキの死因とは?

「ジュール・ビアンキ」とは?簡単に説明

1989年にフランスで誕生したジュール・ビアンキは、プロのレーシングドライバーで、3度のGT(グランツーリスモ)チャンピオンであるマウロ・ビアンキを祖父に持っています。

レース一家に育ったビアンキは、わずか3歳で初めてレーシングカートに乗り、5歳からはすでにカートレースを始めていました。

その後15歳にして、フォーミュラAを制してアジア・パシフィックチャンピオンになったビアンキは、翌2006年には16歳という若さでカートレースのフランスチャンピオンに輝きます。

その後もフォーミュラ・ルノーやフォーミュラ3、GP2、フォーミュラ・ルノー3. 5と順調なキャリアを重ねたビアンキは、2009年末に発足したフェラーリ・ドライバー・アカデミーの初の所属ドライバーとなりました。

2013年の開幕戦となったオーストラリアGPでは、ルーキー勢で3番手となる15位で完走をし、全体としても11番手のラップタイムを記録しています。

輝かしい将来が期待され始めていた矢先の2014年10月、日本の鈴鹿サーキットで開催された第15戦の日本GP決勝レースにおいて、折からの台風18号に伴う雨によるハイドロプレーニング現象により、ビアンキはレース中に速度を保ったままコースアウトしてしまい、作業中だったクレーン車の後方に追突してしまいます。

その後、病院に緊急搬送されたビアンキの手術は成功し、母国であるフランスに移送されましたが、9か月後の2015年7月17日、意識が戻らない状態のままニース大病院にて死去しています。



「ジュール・ビアンキ」の死に様

2014年に開催されたGPシリーズ第15戦の日本GPにおいて、台風が接近していたことにより、鈴鹿サーキット場にはレース前から強い雨が降り続いていました。

雨が降り続く中レースが始まり、43周目にダンロップコーナーで1台のマシンが雨に足を取られたためにコースオフしてしまいます。

雨で濡れた路面は大変滑りやすくなっていたものの赤旗は出ず、コースオフしたマシンの撤去作業を行うための重機が出動していました。

そしてそこへ通りかかったビアンキのマシンは、雨で溜まった水に足を取られ、ハンドル操作が効かなくなってコースアウトしてしまい、そのままスピードを緩めることなく、マシン撤去作業中だったクレーン車に突っ込んでしまいます。

激突時の衝撃は254Gとも言われ、誰もが最悪の結末を予想しましたが、現場での懸命の救出作業と、迅速な病院への搬送などにより、緊急手術は成功して一命を取り留めたものの、昏睡状態からは脱することができない状態でした。

その後、一時的に自発呼吸を再開したことで、母国フランスの病院への転院することが叶い、ニース大学付属病院に移送されたビアンキでしたが、9か月後の2015年7月17日、昏睡状態から意識が戻らないまま死去してしまいました。



「ジュール・ビアンキ」の死に様の信憑性

ジュール・ビアンキの死亡後、実の父であるフィリップ・ビアンキ氏は、2016年7月、FIAとマルシャチームを提訴しています。

事故当時のFIAによる調査結果では「台風が接近している中、黄旗2本で注意を促していたにもかかわらず、十分に減速しなかったビアンキ自身に原因がある」という調査結果が公表されていました。

これに対してフィリップ氏は息子の名誉のために裁判で闘うことを決意しますが、この裁判は現在においても結果が出ておらず係争中という状況です。

「ジュール・ビアンキ」の小ネタ等

ジュール・ビアンキの死亡事故を受けて、アイルトン・セナの時と同じく、安全のための新たなレギュレーションが制定されています。

この「バーチャルセーフティカー」システムは、事故車を撤去するための作業車をコースへ入れる際には、セーフティカーを導入していなくても、全区間において減速を義務付ける規則で、セーフティカーがコースに入るまでのタイムラグがなく、すぐにスロー走行することでドライバーの安全を確保する仕組みになっています。

まとめ

人々を熱狂の渦に巻き込むF1レースですが、何よりもまずはドライバーと関係者の安全を確保した上で運営し続けてほしいと願います。

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