スカルノ大統領はインドネシアの初代大統領で、デヴィ夫人の夫としても知られています。
スカルノ大統領の晩年と最期について紹介します。
スカルノ大統領とは?
スカルノ大統領は、オランダの占領下にあったジャワ島に生まれます。
民族運動に関心があり、1928年にインドネシア国民党を結成しました。
反帝国主義・民族解放を訴え、インドネシアの独立を宣言して初代大統領に就任します。
反植民地闘争の先頭に立ってインドネシアの地位を確固たるものにしますが、権力闘争に敗れ大統領を辞任しました。
スカルノ大統領の晩年
1965年に、インドネシアでは9月30日事件と呼ばれる軍事クーデターが発生します。
当時、スカルノ大統領はインドネシアの経済政策に失敗し、国内は混乱していました。
国際連合も脱退しており、国際的にも孤立していたのです。
9月30日事件は、陸軍の共産主義者による勢力が国軍の首脳部を暗殺しようとした事件になります。
クーデターは鎮圧されましたが、この事件をきっかけにスカルノ大統領は求心力を失います。
スハルト将軍が率いる軍部の右派勢力により、大統領辞任に追い込まれて全ての権限を奪われました。
スカルノ大統領の死に様
スカルノ大統領は、1970年6月にジャカルタにおいて病によって亡くなりました。
享年70です。
スカルノ大統領は失脚した後、自宅で軟禁生活を送っていました。
全ての役職をはく奪され、家族も次々と国外に逃亡していました。
インドネシアでは一夫多妻制が認められているので、スカルノ大統領には複数の妻がいます。
日本からインドネシアに嫁いだデヴィ夫人もその一人です。
スカルノ大統領は親日家として知られ、日本とも有効な関係を築いていたといいます。
スカルノ大統領の失脚後、家族の多くは国外に政治亡命します。
ジャカルタに残ったスカルノ大統領は、失意のうちに亡くなりました。
スカルノ大統領の死に様の信憑性
スカルノ大統領の死因は、腎不全といわれています。
元々、腎臓に持病があり、ヨーロッパで手術することを勧められたこともあったといいます。
それは本人が断ってしまいました。
軟禁状態にあったため、治療が遅れたり適切な治療を受けられなかったことも考えられます。
また、スカルノ大統領には毒殺説もありますが、信憑性には乏しいようです。
ただし、医学的な検査などは行われなかったので、死因がはっきりしない面もあります。
まとめ
スカルノ大統領は政治的に失脚し、自宅で軟禁状態にあった最中に亡くなりました。
享年70です。