いかりや長介の死因は?
「いかりや長介」とは?簡単に説明
昭和6年に現在の東京都墨田区で生まれたいかりや長介は、コメディアンであると共にドリフターズの3代目リーダーを務めたミュージシャンでもあります。
「長さん」という愛称で親しまれていたいかりやは、後年は実写版「サザエさん」や「踊る大捜査線」「弁護士猪狩文助シリーズ」などの俳優としての顔が定着していき、ダンディで渋い役どころが彼の持ち味となっていきました。
ドリフターズ時代には、昭和41年にビートルズの日本武道館公演の前座としてもステージに上がるほどミュージシャンとしても認められており、日本におけるチョッパー奏法の元祖と呼ばれるなどベーシストとしても評価の高い音楽家でもありました。
その後は、国民的人気コメディ番組ともいえる「8時だョ!全員集合」や「ドリフ大爆笑」の総合司会を務めあげ、後年の俳優業に転身していくことになります。
俳優の道を順調に進み始めたいかりやでしたが、平成15年に原発不明頸部リンパ節癌を発症して緊急入院し、一旦は退院するものの、翌年の平成16年3月に癌が転移したことにより、72歳で亡くなってしまいます。
「いかりや長介」の死に様
いかりや長介の死因は「原発不明頸部リンパ節がん」でした。
この原発不明がんの生存率はけっして高いとは言えず、1年生存率は25%未満、5年生存率は10%未満と言われているほどの難病です。
また、この原発不明がんとは、転移元のがんが発見されていない状態のがんで、現在においても治療法がしっかり確立されていない病気です。
転移元が判明していないため、がんの種類に合わせた治療を選択することもできず、抗がん剤を中心とした治療で対処するしか道はありません。
また、これに先立つ平成12年には、食道がんを患っていたいかりやは、発見が初期だったことに加え、内視鏡手術により比較的容易にがんを摘出できたため、マスコミや関係者などにも一切この事実は公表しておらず、後年発症した原発不明がんとの関係も語られてはきませんでした。
平成15年5月からの闘病生活を経て、同年7月には医師から余命宣告を受けていたいかりやの長男である碇矢浩一さんは、医師から言われていた約8ヶ月の余命については本人には明かさず、後年当時の苦しい胸の内を告白しています。
続く平成16年3月15日、癌の転移により再入院したいかりやは、5日後の3月20日に72歳の生涯に幕を閉じます。
「いかりや長介」の死に様の信憑性
平成15年5月に緊急入院したいかりや長介は、2か月後の7月17日に一旦退院し、その2日後には劇場版「踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」の舞台あいさつに参加しています。
すでに心身ともに衰弱していたいかりやでしたが、前作の「踊る大捜査線THE MOVIE」で第22回日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞していた当作の看板俳優であったこともあり、新作の舞台挨拶には是が非でも出席しようと決死の覚悟で臨んでいたと言います。
平成15年12月23日に放送された「40年だよ!ドリフ大爆笑スペシャル」がいかりや生涯最後のテレビ出演となりましたが、この時はすでに体調が大変優れず、声を出すのも精一杯の状態であったそうです。
「いかりや長介」の小ネタ等
昭和59年頃、いかりや長介と志村けんの不仲説がマスコミや新聞紙上を賑わせます。
当時、週刊誌やスポーツ新聞などの多くのメディアが「いかりやと志村の対立」「リーダーと一番人気の確執」などと騒ぎ立てました。
当時のドリフターズは国民的人気グループであり、そのメンバー内で確執があるとすればマスコミには格好の的でした。
その後、この問題はあまり触れてはならないアンタッチャブルな話題となり、風化していきましたが、平成16年にいかりやが闘病生活を送っている最中の病室で、彼が走り書きのメモを何枚か残していたことが関係者から語られています。
いかりやが震える手で書き連ねた文字は「オッス」「八時だよ」「次行ってみよう」「だめだこりゃ」などの往年のドリフでの決め台詞が並び、その中に突然「加藤志村がえらい」という言葉が現れたそうです。
まとめ
いかりや長介は音楽でも、お笑いでも、演技においても非常にストイックな人物だったと言われています。
その情熱がほとばしるあまり、メンバーとの確執や対立などがささやかれていましたが、実際のいかりやはそのキャラクターが多くの人に愛され、悼まれていた昭和屈指のパフォーマーだったと言えるでしょう。