アントニ・ガウディの悲しい死にざまとは?
「アントニ・ガウディ」とは?簡単に説明
アントニ・ガウディは、1852年にスペインのカタルーニャで生まれた建築家です。
ユネスコの世界遺産に登録されているバルセロナのサグラダ・ファミリアやグエル公園、カサ・ミラなどの数多くの建築物を手掛けた人物で、カタルーニャ語では「アントニ・ガウディ」、スペイン語表記では「アントニオ・ガウディ」という表記が一般的に知られています。
17世紀の初め頃にフランスのオーヴェルニュ地方からスペインに移民してきたガウディ家の先祖は、父方も母方も銅細工職人という家系で、この家庭環境がガウディの建築家としての基礎を作ったと言われています。
1867年前後に制作し始めた産業コロニアがガウディの処女作と言われており、1883年にはサグラダ・ファミリアの専任建築家に推薦されています。
後半生は熱心なカトリック教徒として過ごしたガウディは、1914年以降は宗教関連のみの作業依頼に注力し、サグラダ・ファミリアの建設に全精力を注いでいきます。
1926年6月、ミサに向かう途中に段差につまづいて転倒してしまったガウディは、運悪くそのまま路面電車に轢かれてしまい、73年間の生涯を突然終えることになります。
「アントニ・ガウディ」の死に様
様々な建築物を手掛けるようになっていたアントニ・ガウディは、60代を迎えるころになると、立て続けに大切な家族や友人、また支援を続けてくれていたパトロンなどを亡くし、徐々に孤立していきます。
そして世間との繋がりが薄れていくにつれて、マスコミなどからの取材も拒むようになり、自宅や作業場にこもるようになっていきます。
日に日にふさぎ込んでいくガウディは、唯一、サグラダファミリアの建設に携わっている時のみは安穏とした時間を過ごすことができるようになり、それと共に晩年の彼は清貧を極めることを余儀なくされていきます。
次第に身なりなどにも気を遣わなくなってきたガウディは、自身の身に付ける衣服やボサボサの髪型などにも一切気を使わなくなり、大変みすぼらしい姿で出歩くようになっていました。
そんな状況の中、1926年6月7日の夜、ガウディはミサに参加するためにサグラダ・ファミリアの建設現場からサン・フェリペ・ネリ教会へ向かう途中、路面電車にはねられる事故に遭遇し、これが致命傷となって73歳で亡くなってしまいます。
「アントニ・ガウディ」の死に様の信憑性
世間から遠ざかり、自宅や作業場にこもるようになっていたアントニ・ガウディは、ミサに行く道中で路面電車にはねられた時、あまりにもみすぼらしい恰好をしていたために、ホームレスだと勘違いされて病院への搬送が大変遅くなってしまったと言います。
電車にはねられた人物がアントニ・ガウディと分かっていれば、救急車やレスキューなどの初動は迅速になっていたと思われ、当時半分世捨て人のような生活を送っていたガウディの身なりから、事故現場にいた周りの人たちは誰もがホームレスが事故に遭ったと思い込んでいました。
さらに、搬送された救急病院に到着してからもガウディはホームレスとして扱われており、著名な建築家であることは気づかれていませんでした。
その日の深夜、ガウディが帰宅していないことに気づいた知人の神父により、ようやくホームレスではなくガウディが事故に遭っていたことに気づきますが、懸命な治療のかいもなく、それから3日後の1926年6月10日に73歳で亡くなってしまいました。
「アントニ・ガウディ」の小ネタ等
アントニ・ガウディの葬儀は彼の死後、2日経ってから行われ、バルセロナ中の市民が参列したと思わせるほどの長い葬列は、サグラダ・ファミリアを終着地としてバルセロナ中の大通りを巡っていきました。
みすぼらしい恰好で電車に轢かれた時は、誰からも気にしてもらうことができなかったガウディでしたが、彼の葬儀には、バルセロナの偉大な建築家の突然の死を知った数多くのバルセロナ市民が参列してくれました。
この葬儀後、ガウディはサグラダ・ファミリア大聖堂の聖母カルメン礼拝堂の地下に埋葬され、現在に至るまで眠り続けています。
まとめ
現在でも、この聖域ともいえるサグラダ・ファミリア教会を完成させるための建築工事は続いています。
完成予定は、偉大な建築家の没後100年記念に当たる年の2026年を予定しています。