昭和歌謡の名フレーズの生みの親「山口洋子」の死に際とは?
この記事では山口洋子の晩年と死に際について解説していきます。
「山口洋子」とは?簡単に説明
複雑な背景のもとに私生児として生まれ、やや不遇な少女期を過ごしましたが、後年における輝かしい実績の数々はそこから這い上がる為の糧になったのかもしれません。
東映ニューフェイス、銀座のクラブのママ、実業家、作詞家、小説家と選択した道で輝かしい実績を残しています。
1985年に直木賞を受賞していますが、それ以上に昭和歌謡の名曲の数々を作詞した事で人の心に爪痕を刻みました。
「石原裕次郎」の『ブランデーグラス』「中条きよし」の『うそ』「五木ひろし」の『夜空』。
これらの曲はその一部にしかすぎません。
「山口洋子」の晩年
1980年代から始めた執筆活動も2000年代に突入する頃には小説家としては活動を終えていた印象がもたれます。
しかし執筆活動は続けており、主戦場を小説からエッセイへとジャンルを変えただけだと言っていいでしょう。
晩年に出した印象的な著作は2008年10月に出版された『あの日に帰りたい 昭和、愛しき日々よ』が挙げられます。
既に自身の回顧録は1995年の『履歴』で語られていましたが、今回の著作本はさらに世相に踏み込んだものとなりました。
「江夏豊」「田淵幸一」『西武ライオンズ』に所属した昭和の野球スターや「三船敏郎」「鶴田浩二」「石原裕次郎」といった昭和の色男と平成のハンサム論。
「吉永小百合」や「原節子」など誰もが認める昭和の美女観からいつの日からか個性が美女になった多様化した平成の美女観などについて語る渾身作となりました。
昭和を振り返る一方で自身には加齢による老いも現実的なものとなりつつありました。
2013年1月には嚥下能力の低下からか、誤嚥性肺炎を発症。
入院の憂き目に遭ったのが闘病生活の始まりになっています。
「山口洋子」の死に様
2014年9月6日1時6分、東京都内の入院先で死去。
77歳没。
死因は呼吸器不全によるものだと公表されています。
「山口洋子」の死に様の信憑性
詳しい闘病生活については明らかにされてはいないもの、死因に至る原発となったのは誤嚥性肺炎によるものでした。
70代後半という加齢による嚥下能力の低下であったのか、病気によるものなのかはわかりません。
しかし2013年1月に入院するとそれを契機に入退院を繰り返す様になってしまいます。
肺炎の恐ろしいところですが、一度急激に憎悪した場合、高齢者でなくても簡単に命を奪ってしまいます。
山口氏の場合も日常生活には支障がなかった様ですが、亡くなる前日に容態が急変。
そのまま回復できずに亡くなってしまいました。
まとめ
2014年9月6日1時6分、東京都内の入院先にて永眠。
77歳没。
死因は呼吸不全によるものと公表されています。
その原発となったのは2013年1月に罹患した誤嚥性肺炎が発端だったと言っていいでしょう。
嚥下能力の低下により、誤嚥が癖として常習化。
亡くなるまでの1年半は体調を崩して入退院を繰り返していた事が明らかにされました。