「岩崎弥太郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「岩崎弥太郎」の死に際とは?日本の人物

岩崎弥太郎は三菱財閥の創業者で、幕末から明治にかけて活躍した実業家です。

その晩年と最期について紹介します。

岩崎弥太郎とは?

岩崎弥太郎は、土佐藩の地下浪人だった岩崎弥次郎の長男として誕生します。

後藤象二郎の推薦により、土佐藩が運営する商社の開成館に勤務することになりました。

そこで欧米から武器を買い付けたり、土佐藩の物産を輸出するなど欧州の商社と取引を行います。

その後、開誠館の大阪商会は土佐藩から分離され、岩崎弥太郎がその経営者となりました。

これが後の三菱商会です。

三菱商会は海運界で軍需輸送を独占し、巨額の利益を上げます。



岩崎弥太郎の晩年

岩崎弥太郎は晩年、大久保利通と大隈重信といった後ろ盾を失います。

岩崎弥太郎が海運業で大成功を収めたのは、明治政府の中枢にいた彼らとの関係を深めたからでした。

きっかけとなったのは台湾出兵の際で、外国の汽船会社は中立の立場を守ろうと日本兵や兵糧の輸送はできないと断っていました。

日本の他の海運業者も危険が多いことから二の足を踏み、引き受けようとしなかったのです。

そこで名乗りを上げたのが岩崎弥太郎で、台湾出兵で軍需輸送を引き受けると大久保利通や大隈重信から絶大に支持を得ます。

それが海運業の独占につながっていったのです。

しかし、大久保利通は暗殺され、その数年後に大隈重信も失脚してしまいました。

その頃、世論は海運を独占する三菱商会に批判的になります。

そして、三菱財閥に反発する勢力が政府の支援を受けて共同運輸会社を設立し、三菱に対抗しようとします。

その反三菱の勢力には、日本資本主義の父と称される渋沢栄一や三井財閥の増田孝、大倉財閥の大倉喜三郎などが名を連ねていました。



岩崎弥太郎の最期

共同運輸会社との激しい競争にさらされた岩崎弥太郎でしたが、決して屈することはありませんでした。

船の運賃の値下げ競争が進み、両者共倒れになる危険が出てきたのです。

驚いた政府は共同運輸会社との合併を勧めますが、岩崎弥太郎はそれに応じませんでした。

ところが、そんな競争の最中に、弥太郎は胃がんで倒れてしまいます。

別邸において療養していましたが、家族や部下に遺言を残し亡くなっています。

享年50でした。

岩崎弥太郎の死後

岩崎弥太郎の死後、三菱商会の跡を継いだのは弟の弥之助です。

弥之助は海運部門を三菱商会から切り離し、共同運輸会社と合併することに同意しました。

これにより日本郵政となったのです。

三菱財閥は海運業からは手を引きますが、様々な事業を多角的に経営し巨大財閥へと発展していきます。

弥太郎の時代から鉱山や造船、荷為替などの事業も行っており、弥之助の時代にはさらに多角化が進み財閥としての基礎は盤石なものとなりました。

まとめ

岩崎弥太郎は、海運業で軍需輸送を独占し莫大な利益を上げました。

晩年は大久保利通やや大隈重信といった後ろ盾を失い、反三菱勢力が設立した共同運輸会社との厳しい競争にさらされます。

その最中、50歳で胃がんによって亡くなりました。

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