孫文は中国の革命家で、中国革命の父と呼ばれる人物です。
孫文の晩年と最期についてい紹介します。
孫文とは?
孫文は中国の広東省の貧しい農家の生まれで、12歳の時にハワイで財を築いた兄の元に赴きます。
西欧の近代教育を受け、16歳の時に帰国しました。
香港西医書院で医学を学び、医師になります。
その後、政治問題に関心を持つようになり、革命に身を投じました。
ハワイで清朝の打倒を目指す興中会を組織して広州で武装蜂起を計画しますが、失敗したため日本に亡命しました。
ロンドン、アメリカを経て、辛亥革命が発生すると帰国し中華民国の臨時大総統となります。
孫文の晩年
辛亥革命によって清朝は滅び、中華民国が成立しました。
孫文はその臨時大総統となりますが、袁世凱に政権を譲ることとなります。
袁世凱は、中華民国の初代大総統となりました。
袁世凱は中央集権的な政治を取り入れ、自らの権力を強化しようとします。
孫文は袁世凱政権の打倒を目指し、第二革命を起こしますが鎮圧されました。
袁世凱が北京で帝政を宣言したため、それに対抗しようと第三革命が起こります。
その結果、周囲からの圧力によって袁世凱は帝政を撤回しました。
その数か月後に袁世凱が病で亡くなると、孫文は護法運動を展開します。
中国国民党を結成して、中国共産党との国共合作を実施しました。
孫文の最期
孫文は晩年、がんを患っていたといわれています。
北京で療養生活を送りますが、60歳で亡くなりました。
その際、「革命いまだならず」といった言葉を残しています。
そのことについては、非常に心残りだったことが伺えます。
孫文の家族
孫文には、日本人の妻がいました。
大月薫という女性です。
孫文が日本に亡命していた時のことで、横浜の中華街で二人は知り合っています。
二人は正式に結婚しており、結婚式も挙げています。
しかし、実は孫文には中国に中国人の妻がいました。
最初の妻である盧慕貞です。
孫文が忙しかったため、盧慕貞は孫文と夫婦として一緒に暮らすことはほとんどなかったといいます。
盧慕貞と孫文の間には、1男2女がいます。
薫との間にも娘が生まれますが、孫文が帰国することになり薫とは離婚しました。
それから孫文は再び日本に亡命したことがあり、その時に東京で宋慶齢という女性と結婚しています。
宋慶齢は孫文よりも20歳以上年下で、中国の歴史に多大な影響を与えたとされる宋三姉妹の一人です。
宋慶齢の父親が孫文を支援しており、その縁から孫文の秘書をしていました。
宋慶齢と結婚することが決まったため、最初の妻である盧慕貞とは正式に離婚することになったといわれています。
また、孫文には何人か妾がいたといわれているので、女性関係はかなり派手だったのかもしれません。
まとめ
孫文は、晩年も中国革命を実現するために尽力しました。
しかし、志半ばでがんに侵されます。
そして60歳で亡くなりました。
日本に亡命もしており、日本との交流もあった人物です。