「永倉新八」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「永倉新八」の死に際とは?日本の人物

永倉新八は動乱の幕末の時代に、新選組で生き残った数少ない一人です。

永倉新八の晩年と最期について紹介します。

永倉新八とは?

永倉新八は、松前藩士であった長倉勘次の子として江戸に生まれます。

神道無念流の剣士となり、剣術修行をするために松前藩を脱藩しました。

永倉姓を名乗るようになります。

江戸に戻った後は近藤勇と共に浪士組に参加し、新選組が結成されると二番組組長を務めました。

新選組きっての剣豪として知られ、剣術の腕前は近藤勇や土方歳三をしのぐ程だったともいわれています。

池田屋事件の際にも襲撃に加わっており、新選組の名を世に轟かせました。



永倉新八の晩年

戊辰戦争の際、新選組は旧幕府軍として戦闘に参加しています。

その多くは戦死したり、新政府軍に捕らえられて処刑されるなど命を落としました。

局長であった近藤勇は斬首刑に処せられていますし、土方歳三は最後の戦場となった函館五稜郭で戦死しています。

それに対して永倉新八は戊辰戦争の折、方針の違いから近藤勇と袂を分かち新選組を離脱します。

あらたに靖兵隊という組織を作って各地を転戦しますが、旧幕府軍の敗北が決まると江戸に戻りました。

その後、松前藩に帰藩することが許されます。

松前藩の藩医であった杉村介庵の娘と結婚し、婿養子となります。

北海道に移住すると、刑務所で看守たちに剣術を教える師範を務めました。

退職後には東京で剣術道場を開きますが、再び北海道に移り住み東北帝国大学農科大学で剣道を指導したりもしています。

晩年は自らが培ってきた剣道の技を伝える暮らしをしていました。



永倉新八の最期

永倉新八が亡くなったのは、77歳の時でした。

1915年に晩年を過ごした小樽で亡くなります。

骨膜炎と敗血症を発症したのが原因です。

骨膜炎と敗血症は、虫歯が引き起こしたといわれています。

永倉新八をめぐる逸話

永倉新八は晩年、新選組の数少ない生き残りとして新選組のことを広める活動も行っています。

永倉新八の回顧録に「新選組顛末記」があります。

これは永倉新八の話を回顧録としてまとめたもので、小樽新聞に「新選組永倉新八」という題名で掲載されました。

それを息子が新八の13回忌に合わせて再編集し出版したのが「新選組顛末記」です。

また、近藤勇や土方歳三とは袂を分かっていましたが、二人の墓を新選組に好意的だった医師の松本良順と共に建立してもいます。

永倉新八は晩年、孫と映画を見に行くことを楽しみにしていました。

近藤勇や土方歳三が若くして亡くなったことを想い、自分は長生きしたおかげで新しい文明に触れられたと感慨深げに語ったという逸話も残されています。

まとめ

永倉新八は剣豪が揃う新選組の中でも、優れた腕前を持っていました。

戊辰戦争後には、剣術を教える生活を送ります。

新選組に関する回顧録なども残しています。

そして余生を過ごした小樽で、77歳の時に骨膜炎と敗血症を患い亡くなりました。

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