市川雷蔵(8代目)は、時代劇映画で活躍したスター俳優です。
数々の映画賞を受賞し、端正な容姿と舞台で培った演技力で人気を博しました。
市川雷蔵の晩年と最期を紹介します。
市川雷蔵(8代目)とは?
市川雷蔵は、赤ん坊の頃に伯父であった市川九團次の養子となります。
雷蔵も歌舞伎役者になる道を選び、15歳の時に二代目市川莚蔵として初舞台を踏みました。
役者としての資質を見込まれ、関西歌舞伎の名優と謳われた市川壽海の養子となります。
そして、市川雷蔵の名跡を継ぎました。
その後、映画俳優に転身し大映に入社します。
1954年に映画「花の白虎隊」で映画デビューを果たすと、一気にスターダムに駆け上がりました。
市川雷蔵(8代目)の晩年
市川雷蔵はその生涯で153本の映画に出演しましたが、晩年の代表作といえば眠狂四郎シリーズです。
主人公の眠狂四郎を演じ、雷蔵ならではのダンディズムやニヒリズムを感じさせる演技でが高く評価されています。
雷蔵の俳優としてのキャリアは順調そのものでしたが、プロデューサーや監督業を手掛けてみたいと思うようになります。
1968年には、テアトロ鏑矢という劇団を設立しました。
ところが、本格的に活動を始める前に病に倒れてしまったのです。
市川雷蔵(8代目)の最期
市川雷蔵は映画の撮影中に下血し、病院に入院します。
そこで直腸がんという診断が下されました。
その診断結果は本人には伝えられていません。
手術を受け退院しましたが、医師からは再発すると言われていました。
その後、2本の映画の撮影を行いますが、体調が悪化して再び入院します。
本人は復帰することを望んでいましたが、体の衰えはより深刻になっていきました。
そして、転移性肝がんのために37歳という若さで亡くなりました。
市川雷蔵(8代目)をめぐる逸話
市川雷蔵が歌舞伎役者をやめて映画俳優に転身した理由には、歌舞伎界では権門の出ではないため出世には限界があったことが考えられます。
幼い頃に養父となった市川九團次は歌舞伎とは縁のない家の生まれで、歌舞伎役者に憧れて弟子入りしたという経歴の持ち主でした。
いってみれば脇役を専門に行う役者です。
その息子である雷蔵も、良い役が回って来るとは考えられませんでした。
市川壽海の養子となってからも大役は与えられず、それに対して不満を抱いていたともいわれています。
ただし、本人は若い時に映画で稼いで年を取ったら歌舞伎をやるといったことも話しているので歌舞伎に対する情熱も持っていたと思われます。
雷蔵は役者としては類まれな才能を持っており、市川崑監督の映画「炎上」で主演した際にはキネマ旬報主演男優賞やブルーリボン賞男優主演賞を受賞しています。
まとめ
市川雷蔵(8代目)は、歌舞伎役者から映画俳優に転身し大成功をおさめます。
自らの劇団を立ち上げた矢先、病が発覚して入院することになります。
そして、37歳という若さで亡くなりました。