「尼子義久」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「尼子義久」の死に際とは?日本の人物

尼子義久は出雲の国の戦国大名でしたが、尼子氏は宿敵であった毛利元就に攻め滅ぼされます。

しかし、命を奪われることはなく、71年の天寿を全うしました。

その晩年と最期について紹介します。

尼子義久とは?

尼子義久は天文9年に尼子晴久の子として誕生します。

尼子氏は宿敵毛利氏と石見大森銀山をめぐって曾祖父の代から激しく争っていました。

父が亡くなり義久が家督を継ぐと、毛利氏との争いも続くことになります。

義久は毛利氏との和平の道を探りましたが、逆に毛利元就に攻め込まれてしまいます。

出雲の有力な国人たちが毛利氏に次々と寝返り、降伏することとなりました。



尼子義久の晩年

毛利氏が出雲に侵攻したのは永禄5年のことで、出雲にある白鹿城や熊野城が次々と落城していきます。

晴久は急死したので、跡を継いだ義久には尼子氏の家臣たちを束ねる力はまだなかったと考えられます。

今まで尼子氏によって押さえつけられていた国人たちの不満も噴出したといいます。

そして、伯耆江美城が落城すると、尼子義久のいる月山富田城は孤立してしまいました。

数年に及ぶ籠城戦が繰り広げられましたが、毛利軍の兵糧攻めにあい降伏することを決意します。

永禄9年11月28日、月山富田城を開城しました。

この時、毛利元就は義久の身柄を安堵するという血判を送っており、実際に首を刎ねられることはありませんでした。

これにより戦国大名尼子氏は滅亡し、毛利氏は中国地方の支配者となったのです。

尼子義久は、弟達と共に安芸円明寺に幽閉されます。

その後、出家して剃髪しました。



尼子義久の最期

安芸円明寺に幽閉された尼子義久ですが、その後幽閉は解かれています。

そして、毛利元就の孫である輝元の時代に尼子義久は毛利氏の客分として迎えられることになりました。

居館を与えられ、そこで穏やかな晩年を送ります。

亡くなったのは慶長15年のことで、享年71でした。

毛利家の意向により、尼子氏の跡は甥の元知が継いでいます。

元知の「元」という字は、毛利輝元から一字をもらったものです。

このことからも尼子氏が完全に毛利氏の傘下となったことが分かります。

なぜ毛利元就は尼子義久の命を助けたのか?

毛利元就が尼子義久の命を助けたのは人道的な見合いもありますが、殺してしまうよりも人質にしておく方が良いという判断があったからです。

敗れたとはいえ尼子氏は出雲で求心力を持つ家柄なので、再興を願う勢力が反乱を起こさないとは限りません。

そこで義久やその弟達を人質にとる方が、統治しやすくなると考えたのです。

まとめ

尼子義久は家督を継ぐと、父や祖父の代から銀山をめぐって争っていた毛利氏と激しい攻防を繰り広げます。

しかし、毛利元就が出雲に侵攻してくると味方が寝返るなどして孤立させられ、数年にわたる籠城の末に降伏することとなります。

しかし、命は助けられ安芸円明寺に幽閉されました。

晩年は毛利氏の客分として扱われ、71歳で亡くなります。

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