「井上馨(いのうえかおる)」とは?
井上馨の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「井上馨」とは?簡単に説明
井上馨は幕末に誕生した長州藩出身の政治家、実業家です。
幕末期当初は尊王攘夷運動に参加し、高杉晋作や伊藤博文らとイギリス公使館襲撃事件などを起こします。
しかし、その後伊藤らとイギリス留学を経験すると開国派に転向します。
明治新政府になってからは大蔵大輔となり貨幣制度改革を実施しています。
一時実業界にも身を置きますが、伊藤の強い要請で政界に復帰し、各種大臣を歴任しています。
「井上馨」の死に様
井上馨は1915年8月、発熱と発疹によって旺盛だった食欲が大幅に減退します。
同月31日には昼食後に嘔吐し、発熱します。
翌日の1915年(大正4年)9月1日にはしっかりと朝食を食べていますが、自らが静養していた静岡の別荘隣の農事試験場でとれたメロンを大正天皇に謙譲するよう指示しています。
しかし同日午前11時11分にその静岡の別荘・長者荘で亡くなっています。
享年81歳でした。
死因としては脳溢血、尿毒症による皮膚炎、心臓麻痺が挙がっています。
井上は1913年に脳溢血で倒れており、この時から左手など身体の一部に麻痺が残っていましたが、杖を使って歩けるほどまでには回復していました。
亡くなる1が月前には尿毒症による皮膚炎でコップ1杯分の皮膚が剥がれ落ちたと言います。
そして最期は心臓麻痺により眠るように亡くなったと言われています。
「井上馨」の死に様の信憑性
結論として井上は病死したとなっており、詳細な病名は明確にはされていないようです。
上記に挙げられた病名は考えられる病名のようです。
詳細は不明ですが、安らかに亡くなったというのは確かなようです。
「井上馨」の小ネタ等
井上馨が亡くなるのは1915年ですが、それよりかなり前の1864年の数え年30歳の時に井上はほとんど死にかけています。
第一次長州征伐の際に討幕派だった井上は対立派閥によって襲撃を受けるのです。
襲撃者は俗論党の児玉愛次郎、中井栄次郎、周布藤吉の3人とされ、井上は3人に背中、後頭部、顔面、下腹部、胸部をメッタ刺しされます。
瀕死の重傷を負った井上はなんとか近くの農家にたどり着き、自宅に搬送されます。
しかし、助からないと悟った井上は兄に介錯を求めますが、井上の母が命懸けで命乞いをしたため介錯は思いとどまります。
この時、たまたま近くにいた適塾出身の美濃国の医師・所郁太郎によって一命をとりとめています。
まとめ
幕末の長州藩出身の志士から明治新政府で政治家になった人物の中では、名が知られている割に影の薄い人物のような気がします。
あまり派手なエピソードがなく、一番印象に残るようなエピソードが幕末の襲撃事件なのが原因なのかもしれません。