「稲葉一鉄」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「稲葉一鉄」の死に際とは?日本の人物

「頑固一徹」の語源になった人物?

織田信長に仕え、幾多の戦いに身を投じた武人「稲葉一鉄」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「稲葉一鉄」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「稲葉一鉄(いなば いってつ)」とは?簡単に説明

「稲葉一鉄」とは戦国武将であり、同じ美濃国(現在の岐阜県南部)武将の「氏家卜全(うじいえ ぼくぜん)」「安藤守就(あんどう もりなり)」と共に「西美濃三人衆」の1人として数えられます。

本名は「稲葉良通(いなば よしみち)」であり、「一鉄」は出家した後の法名です。

最初は「土岐氏」に仕えていましたが、後に「斎藤氏」の重臣となりました。

やがて「斎藤氏」から離反し、「織田信長」に臣従します。

その後は織田家臣として各戦に参戦しますが、「本能寺の変」により「織田信長」没後は「豊臣秀吉」に与します。



「稲葉一鉄」の晩年と最期

天正11年(1583年)に「羽柴秀吉」「柴田勝家」の間で起きた「賤ケ岳の戦い」や、天正12年(1584年)に「羽柴秀吉」「織田信雄(織田信長の次男)」「徳川家康」の間で起きた「小牧・長久手の戦い」では「羽柴秀吉」方として参戦します。

「小牧・長久手の戦い」を最後に「稲葉一鉄」が参戦した記録はなくなり、前線から退いたとされています。

その後は、「豊臣秀吉」「佐々攻め」の際に寺社へ禁制を掲げたり、「島津攻め」で九州より戻ってきた「豊臣秀吉」を出迎え、逆に「豊臣秀吉」に大阪城へ招かれたとする記録が残っています。

そして、天正16年(1588年)に美濃清水城にて生涯を終えます。

享年74歳でした。



「稲葉一鉄」の死に様の信憑性

死因については不明で、定かではありません。

「稲葉一鉄」にまつわるエピソード

最期に「稲葉一鉄」にまつわるエピソードをご紹介します。

「頑固一徹(がんこいってつ)」の語源とされている?

「稲葉一鉄」は非常に頑固な一面があったと史料に記録されており、「頑固一徹」の語源となった人物とされています。

「頑固一徹」とは、「一度決めたら、自分の考えや態度を頑なに変えようとしないさま」という意味の言葉です。

織田信長に暗殺されかける

ある日、「稲葉一鉄」が裏切りを画策しているとの讒言を耳にした「織田信長」は、「稲葉一鉄」を暗殺しようと茶会に招きます。

茶会にて、「稲葉一鉄」は茶室に掛けてあった墨蹟(ぼくせき)に記されている漢詩を読み下しつつ、自身の潔白を述べました。

「織田信長」「稲葉一鉄」の学識の深さに感銘を受け、疑惑を拭い去ったとされています。

まとめ

「稲葉一鉄」とは「西美濃三人衆」としても有名な戦国武将です。

「土岐氏」「斎藤氏」を経て「織田信長」に臣従し、各地を転戦しました。

「織田信長」が横死した後は、「豊臣秀吉」に与しますが、「小牧・長久手の戦い」を最後に前線を退いたとされています。

天正16年(1588年)に生涯を終えます。

享年74歳でした。

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