チャールズ・チャップリンは、世界的名声を博した喜劇王として知られています。
チャールズ・チャップリンの晩年と最期について紹介します。
チャールズ・チャップリンとは?
チャップリンはサイレント映画の時代に活躍した喜劇俳優で、自ら映画製作を行いました。
脚本や監督も行っていたのです。
チャールズ・チャップリンはロンドン生まれで、非常に貧しい子ども時代を送りました。
兄と共に救貧院に保護されたことも何度もあります。
成長すると俳優や芸人として舞台に立つようになり、アメリカ巡業中にスカウトされて映画の世界に入りました。
「黄金狂時代」や「独裁者」「ライムライト」等、数々の名作を制作しています。
政治を風刺している作品が多くあります。
チャールズ・チャップリンの晩年
1952年、チャップリンは家族と一緒にロンドンを訪れます。
その間にアメリカへの再入国許可を取り消されてしまいました。
それにより長くアメリカで映画作りをしていたチャップリンでしたが、アメリカと決別することを決意します。
その後はスイスに移住し、亡くなるまでスイスで過ごしました。
スイスに渡ってからも映画作りを続け、アメリカを批判する映画も製作しています。
晩年には自伝も執筆し、ベストセラーとなりました。
1972年にチャップリンはアカデミー名誉賞を授与されます。
それを受けるべきか迷いましたが、授賞式に参加し20年ぶりにアメリカに戻ります。
チャップリンはスタンディングオベーションで迎えられました。
1975年にはイギリスの女王からナイトの称号も与えられています。
チャールズ・チャップリンの最期
チャップリンの創作意欲は年をとってからも衰えませんでしたが、少しずつ体調が悪くなっていきます。
何度か脳卒中を起こしており、歩くこともできなくなります。
そして1977年のクリスマスの日に、脳卒中を起こして88歳で亡くなりました。
チャールズ・チャップリンの家族
チャップリンは生涯で4度結婚しており、4度目の妻となったウーナ・オニールとは亡くなるまで連れ添いました。
ウーナとの間には子どもも8人生まれました。
チャップリンの晩年は、妻のウーナや子供達に囲まれた幸せなものだったといいます。
チャールズ・チャップリンをめぐる逸話
チャップリンは親日家で、自宅では使用人として日本人を雇っていたこともあります。
運転手として雇われた高野虎一はチャップリンから非常に信頼され、秘書として働きました。
しかし、第二次世界大戦が勃発すると、アメリカでスパイ容疑をかけられて強制収容所に収容されてしまいます。
その後、日本に帰国しました。
チャップリンは来日したことも4度あり、海老のてんぷらが大のお気に入りだったと言われています。
まとめ
チャールズ・チャップリンは、晩年をスイスで家族と共に過ごしました。
年齢を重ねても創作意欲は衰えませんでしたが、脳卒中を何度か起こして体調は悪化します。
そして88歳で亡くなりました。