英国が生んだレジェンドレーサーの一人「ジェームズ・ハント」の散り際とは?
この記事ではジェームズ・ハントの晩年と最期について解説していきます。
「ジェームズ・ハント」とは?簡単に説明
F1パイロットとして鈴鹿以前の日本グランプリ、富士スピードウェイ時代に鮮烈な印象をオールドファンならば覚えていることでしょう。
1976年は富士でワールドチャンピオン、77年は日本GPの勝者となりました。
この鮮烈な印象からマクラーレンMP23は模型化、さらにフジテレビのアニメ『アローエンブレム・グランプリの鷹』でも実名で登場しています。
日本では『マクラーレン』時代の話になりがちですが、海外ではアレクサンダー・ヘスケス卿のプライベートチーム『ヘスケス』時代を語る人も多く見られます。
「ジェームズ・ハント」の晩年
レジェンドF1パイロットなれど、その現役期間は短く『マクラーレン』の低迷期、消滅した『ウルフ・レーシング』のマシーンの戦闘力の無さに失望するとあっさりと引退。
その後投資ビジネスで失敗する憂き目に遭うもイギリス『BBC』でF1中継の解説を担当しています。
セナ・プロ対決、ホンダエンジンがF1を席巻していた時代には雨後の竹の子様にレース雑誌が乱立したことで、彼の寄稿文を読んだことがある方もいらっしゃることでしょう。
とにかく辛口で知られており「中嶋悟」や「リカルド・パトレーゼ」には辛辣な放言を残したことで有名でした。
「ジェームズ・ハント」の死に様
93年6月15日に永眠しています。
死因は心臓発作によるものでした。
45歳没。
「ジェームズ・ハント」の死に様の信憑性
93年6月15日は歓喜と悲劇が混じり遭う日となりました。
現役時代からその風貌でプレイボーイとして知られており、2度の離婚や女遊びがゴシップ紙のネタになっていたハント氏ですが、この日は当時付き合っていた彼女にプロポーズを敢行。
それが上手くいったこともあり、気分良く饒舌だったと言います。
持病等はなかったもの、愛煙家でパーティー好きだったのは有名な話。
前述したプレイボーイとして女遊びも派手であった反面、繊細な一面もあり、レースへの恐怖に駆られ体調を乱すこともしばしばあったそうです。
没後の2013年に親友「ニキ・ラウダ」氏との友情物語を描いた映画『ラッシュ』が公開。
しかし主にフェラーリ、マクラーレン対決となった1976年をメインとして描かれたものでした。
このため晩年や死因に繋がる様な目立った話はありませんでした。
但し14年にプロモーションでラウダ氏が来日。
その時に語っていたのはハント氏は映画以上にプレイボーイで毎日遊んでいたというエピソードでした。
F1パイロット時代の緊張感・ストレスと積み重なった不摂生が寿命を縮めることになったのかもしれません。
まとめ
「ジェームズ・ハント」氏は1993年6月15日にイングランド南西部のウィンブルドンにある自宅で急死しています。
45歳没。
死因は心臓発作によるものでした。
当日はなんら変わった様子はなく、当時交際中のパートナーにプロポーズしています。
プロポーズは成功したもの、その数時間後に悲劇的な結末を迎えました。