「フビライ・ハン」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「フビライ・ハン」の死に際とは?世界の人物

「フビライ・ハン」とは?

フビライ・ハンの晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「フビライ・ハン」とは?簡単に説明

フビライ・ハンはモンゴル帝国第5代皇帝で、中国を治めた元の初代皇帝でもあります。

また、モンゴル帝国を築いたチンギス・ハンの孫に当たる人物です。

日本との関わりが深いのは、鎌倉時代にフビライによって行なわれた文永の役と弘安の役、すなわち元寇です。

この2度にわたるフビライの遠征計画は結果的に失敗に終わり、この影響もあってフビライ晩年の元は財政難に苦しむことになります。



「フビライ・ハン」の晩年

フビライの晩年には彼の後継を巡る反目が表面化します。

皇太子に冊立されたフビライの次男のチンキムは行政と軍政の機関を掌握し、その権力が絶大となっていきます。

一方、財務長官として辣腕を振るい、元に莫大な税収をもたらして権勢を振るっていたのがフビライによって登用されたイラン系ウズベキスタン人のアフマドでした。

やがて2人の反目が表面化し、至元19年(1282年)アフマドはチンキム派の官僚によって暗殺され、アフマド派は失脚します。

これにより、チンキムの権勢を阻む者はいなくなり、フビライの後継者としての地位を確実なものにしたかに見えますが、チンキムは至元22年(1285年)に突如急死してしまいます。

有力な後継者を失い、財政の達人であったアフマドが死んだことで財政は悪化し、その後の元は反乱の鎮圧と財政難に苦しむことになります。

そのため、フビライは3度目を計画していた日本への遠征計画を諦めることになるのです。



「フビライ・ハン」の死に様

フビライ・ハンは至元31年1月22日(1294年2月18日)に、大都宮城の紫檀殿で崩御しています。

79歳でした。

死に至った具体的な原因は病死とだけ伝わっており、詳しい病名は解りませんでした。

「フビライ・ハン」の死に様の信憑性

『元史』巻十七本紀第十七に、「三十一年春正月壬午朔、帝不豫、・・・」という記述があります。

「不豫」とは皇帝の病気のことを言うので、フビライ・ハンが戦死とか暗殺とかではなく、病気で亡くなったことは間違いないようです。

なお、フビライは幼い頃はひ弱で、祖父のチンギス・ハンにはあまり期待されてはいない孫だったようです。

また、古今東西の英雄にあるあるの、痛風に相当苦しんでいたとの話もあります。

まとめ

フビライ・ハンの死因については確実な記録がなく、病死としか分かりませんでした。

ただ、精力的な活動の様子や80歳近くまで生きたことを考えると頑強な肉体を持った英雄だったようです。

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