徳川四天王の一人として名を馳せ、「井伊の赤備え」でも有名な徳川家屈指の猛将・井伊直政の晩年や最期を紹介します。
「井伊直政」とは?簡単に説明
井伊直政は、1561年(永禄4年)、今川家家臣・井伊直親の嫡男として生まれました。
翌年、父・直親が謀反の疑いで殺され、他家で養育されたり、寺に預けられたりするなどの苦難を味わいます。
後に、徳川家へ身を寄せた際、徳川家康の小姓に取り立てられると、小牧・長久手の戦いや(豊臣秀吉の)小田原征伐など、数々の戦で手柄を上げて出世していきます。
やがて、若年ながら徳川四天王の一人に数えられるようになりました。
(他の3人は、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政で、いずれも直政より10以上年上)
「井伊直政」の晩年
直政は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、家康率いる東軍の本陣を監督する一方、多くの西軍諸将を東軍に取り込む工作にも力を発揮します。
戦では、半ば抜け駆けの形で先陣を務め、戦端を開くきっかけとなりました。
戦いが東軍勝利に終わると、直政は、徳川と島津の講和や、真田昌幸・信繁(幸村)父子の助命嘆願など、戦後処理の交渉などにも尽力しました。
関ヶ原の戦いの功績により、直政は近江18万石を与えられます。
「井伊直政」の死に様
関ヶ原の戦いから間もない1602年(慶長7年)2月1日、井伊直政は亡くなりました。
彦根城築城のさなかでした。
直政は、関ヶ原の戦いで島津軍と戦っているとき、銃で足を撃たれて傷を負って落馬しています。
そのときの傷が原因だったと言われています。
享年42。
家康に見いだされ、愛され、期待に応えていった井伊直政。
さらに先の将来も嘱望された男の早すぎる死でした。
「井伊直政」の死に様の信憑性
井伊直政の死は、1602年(慶長7年)2月1日とはっきりしていることや、直政が藩主となった佐和山藩(後の彦根藩)について記した史料にも書かれていることから、死に様についての信憑性は高いと思われます。
「井伊直政」の小ネタ
彼の飛躍は、実力によるものが大きいのは間違いありません。
しかし「井伊直政が美男子だった」ことも要因の一つだという説もあります。
当時は、主君と部下(主に小姓)が男性同士で愛し合う「衆道」が武士のたしなみでした。
家康の小姓だった直政が衆道の関係にあってもおかしくありません。
実際に直政はとても見た目が良かったと言われており、家康は直政のことをとても可愛がっていました。
美男子ゆえに可愛がられ、活躍の場が与えられやすかったということもあったかもしれません。
まとめ
井伊直政の晩年や最期について紹介しました。
恵まれない幼少期を過ごした彼ですが、後の天下人・徳川家康に見いだされた後は、若くして戦と外交両面で大活躍しました。
武士としては夢のような後半生と言えます。
関ヶ原後も生きていれば、江戸幕府の柱石としても力を発揮していたかもしれません。
42歳という早すぎる死が惜しまれる武将です。