「百地丹波」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「百地丹波」の死に際とは?日本の人物

百地丹波は伊賀の郷士の一人で、織田信長に敗れたことが分かっています。

伊賀流忍術の祖ともいわれますが、本当にそうだったのかは明らかになっていません。

百地丹波の晩年や最期について紹介します。

百地丹波とは?

百地丹波は、伊賀の那賀郡というところに生まれます。

伊賀を支配していたのは北部が服部氏で、南部は大江氏でした。

百地氏は大江氏に連なる一族です。

1579年には、織田信長の次男である信雄が、伊賀の領国化を狙って伊賀攻めを行います。

それに対抗したのが百地丹波で、織田軍の武将である柘植保重と激突しました。

そして百地丹波が勝利をおさめ、信雄の軍勢は敗走しています。

この時、勝利の要因となったのは信雄のつたない攻めもありましたが、丹波が地形を生かした奇襲作戦や夜襲を行ったからといわれています。

百地丹波の晩年

百地丹波が織田信雄に勝利を治めたことで、織田の伊賀平定はしばらく後回しになりました。

信雄の父である織田信長はその頃、石山本願寺と抗争していたところです。

それが激化したため、伊賀に目を向ける余裕はありませんでした。

そもそも信雄の伊賀攻めは信長の意思によるものではなく、信雄が勝手に行ったことです。

敗戦の報せを聞いた信長は激怒し、信雄とは親子の縁を切るとまで言いました。

信雄の軍では多くの兵が失われており、重臣であった柘植保重も討ち取られてしまったからです。

しかし、これが信長の警戒心を強め、天正伊賀の乱へとつながっていくのです。

今度は、織田信長が自ら5万人もの兵を率いて伊賀に侵攻してきました。

百地丹波は柏原城にこもって抵抗しますが、織田信長の軍勢は各地に進撃し伊賀を制圧していきます。

兵士ではない住民も殺害されたり、村や寺が焼き払われるなど甚大な被害が出ました。

柏原城に和睦の使者が送られたため、それに応じて開城し伊賀の乱は終結します。

百地丹波の最期

伊賀の乱後、百地丹波がどうなったのかはよく分かっていません。

柏原城において、討ち死にしたともいわれています。

ただし、多くの指揮官は他国へ逃亡し生き延びており、ほとぼりが冷めてから伊賀に戻ってきています。

そのうちの一人であったとも考えられます。

百地丹波をめぐる逸話

江戸時代、人気となっていた読本に盗賊・石川五右衛門の物語があります。

石川五右衛門は実在した盗賊で、子どもと共に釜茹での刑になりました。

その石川五右衛門に忍術を教えた人物が百地三太夫と呼ばれる人で、百地丹波と同一人物ではないかと考えられています。

勿論、物語なので大分脚色されており、三太夫は架空の人物という説もあれば丹波の甥、あるいは孫であるといった説もあります。

まとめ

百地丹波は伊賀の郷士の一人で、伊賀の乱において織田信長の侵攻を受け柏原城に籠城します。

そこで討ち死にしたともいわれていますが、他国へ逃げ延びて戻ってきたともいわれています。

その最期は謎めいていて、はっきりしたことは分かっていません。

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