宇喜田秀家は安土桃山時代に活躍した戦国武将で、豊臣秀吉の重用された人物として知られています。
豊臣政権の元で五大老にまで上り詰めますが、徳川家康との関ヶ原の戦いに敗れ八丈島に流罪となる等、数奇な運命をたどっています。
宇喜田秀家は、どのような晩年と死を迎えたのでしょうか。
宇喜田秀家とは?
宇喜田秀家は、備前の国の岡山城主・宇喜田直家の次男として誕生します。
父の急な死によって家督を継いだ後は、織田信長や豊臣秀吉に仕えました。
特に豊臣秀吉との結びつきは強く、前田利家の娘で秀吉の養女となった豪姫を正室として迎えています。
秀家という名前の「秀」という字も、秀吉から与えられたものです。
朝鮮出兵の際にも目覚ましい活躍を見せ、五大老の一人に任じられるなど秀吉から非常に重用されました。
宇喜田秀家の人生が暗転したのは、1600年に起こった関ケ原の戦いです。
天下分け目の戦いといわれているように、秀吉の死後の覇権を争う一大合戦でした。
宇喜田秀家はこの戦いで西軍の主力として参戦しますが、徳川家康率いる東軍に敗れ八丈島へ配流となりました。
宇喜田秀家の晩年
宇喜田秀家は、流人として配流された八丈島でその生涯を終えます。
二人の息子達も秀家と一緒に八丈島に流されました。
秀家が八丈島へ来たのは1606年(慶長11年)のことで、亡くなったのは1655年(明暦元年)のことです。
秀家は50年近く、八丈島で過ごしたことになります。
本来であれば死罪になってもおかしくはありませんでしたが、妻である豪姫の兄・前田利長や縁のある島津忠恒の嘆願もあり死罪は免れました。
この時、豪姫は夫や子供と共に八丈島に行くことを願ったとされますが、それが叶うことはありません。
二人は再会することなく、離れた地で亡くなりました。
しかし、豪姫とのつながりが絶たれることはなく、豪姫は夫と息子達に食べ物などを送ったといわれています。
前田家からの援助は、豪姫が亡くなった後も続きました。
また、不自由な暮らしぶりが伝わる逸話も残されていますが、高い身分であったため他の流人よりは厚遇されていたと考えられます。
八丈島を所領する源家の宴席に招かれた記録もあります。
宇喜田秀家は名も浮田久福と改めており、浮田家の血脈は今も続いています。
宇喜田秀家の死に様
宇喜田秀家が亡くなったのは、1655年の84歳の時です。
関ヶ原の戦いで争った徳川家康はとっくに没しており、第4代将軍徳川家綱の治世となっていました。
当時としては非常に長命で、関ヶ原の合戦に加わった武将の中では最も長生きした人物です。
その死に関して詳しい記録は残されていませんが、長寿だったことを考えると老衰など穏やかな最期を迎えたことが予想されます。
ちなみに、一緒に八丈島に流された長男は数年前に没しています。
まとめ
宇喜田秀家は、五大老という役職にまで上り詰めながら晩年は恵まれない人生を送りました。
しかし、84歳まで長生きするなど、激動の時代を逞しく生き抜いています。