「森長可」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「森長可」の死に際とは?日本の人物

鬼武蔵と呼ばれた『森長可』の晩年と最期について解説。

「森長可」とは?簡単に説明

戦国時代に鬼と呼ばれた武将といえば“鬼真壁”こと「真壁氏幹」と並んでメジャーなのが森長可と言っていいでしょう。

鬼と呼ばれるのはもとより破天荒なエピソードの数々は27歳の若さで亡くなった武将としては異例の多さです。

三男の森成利こと蘭丸とは真逆な人物像と言っていいでしょう。



「森長可」の晩年

主君「織田信長」ならびに実弟の三人「蘭丸、長隆、長氏」を失った本能寺の変の際には越後まで攻めこんでいましたが、知らせを知るや否や即座に撤退。

主君や弟の敵を取るために帰国を決意し断行します。

不仲の「河尻秀隆」が甲州で討ち取られ、織田四天王の「滝川一益」が敗走したのとはうって変わり強硬突破に成功するのでした。

その方法は信濃国人からの人質解放の要求には応えず逆に盾にしたもので、信濃を抜けたところで人質を全員惨殺する“鬼”らしい悪逆無道さを見せつけています。

その後、帰国した美濃でもひと悶着ありますが、これも国人一揆を力業で捩じ伏せるのでした。

最後の戦いとなる小牧・長久手の合戦時には羽柴秀吉側で参戦することになりました。



「森長可」の死に様

羽黒の戦いで奇襲を受け敗走した失態を晴らすべく、義父でもある「池田恒興」の池田隊とともに不退転の覚悟で出陣。

先陣を切った池田隊に続く三河進撃第2隊として進軍します。

池田隊が岩崎城攻略成功したことで軍列が間延びし、さらには最後尾の総大将「三好長吉」が奇襲を受け敗走。

それに気づいた第3隊「堀秀政」が三好隊を救援に向かった事で、軍勢は池田・森隊と堀・三好隊に分断してしまいます。

さらには三好隊の壊滅を知った時には堀隊も救援後に出現した家康本隊の動きを見て戦場から離脱、池田・森隊は孤立する事になってしまうのでした。

これにより長可は義父の池田隊と合流するも、既に死を覚悟していたのは間違いなく遺言状を秀吉に残しています。

武勇の誉れでは長可に勝るとも劣らない「池田元助」とともに両翼として奮闘するも昼頃に家康本陣へ突撃をかけたところ井伊隊の銃撃を頭部に受けて討ち取られてしまうのでした。

1584年5月18日死没、享年27。

「森長可」の死に様の信憑性

長可が亡くなったのは、この戦場で遺言状を書いていることから明らかです。

池田恒興も遺言状を残しており、軍議の場では既に敗戦は必至だったと思われますが、長可の遺言状は至って冷静でした。

「あとつぎ候事、いやにて候」と家督は弟の「森忠政」に譲ることをよしとせず、忠政は秀吉に奉公、自領の金山も信頼できる武将に渡すようにと指示を残しています。

漫画『センゴク一統記』では小牧長久手の戦いの発端となった羽黒の戦いで酒井忠次隊の奇襲を受けた際に泥酔で失態をさらしたことになっていますが、こちらは史実ではありません。

また「森長可戦死の地」と伝わる場所を見ると明らかに突出しており、長可の突撃が良くも悪くも戦場の膠着状態を崩した大きな要因になったのは間違いないでしょう。

まとめ

森長可は小牧長久手の合戦で敗色濃厚の状況ながらもよく戦いましたが、最期は“鬼”らしく家康本陣へ突撃をかけ突出したところを鉄砲で眉間を撃ち抜かれ命を落とすことになりました。

旧織田家でそれなりの力を持ち、数々のエピソードが物語る通り“一癖ある”人物だっただけに秀吉はその死を喜んだともまことしやかに伝えられています。

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