「若山セツ子」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「若山セツ子」の死に際とは?日本の人物

世にも奇妙な最期を遂げた?「若山セツ子」の死に際とは?

この記事では若山セツ子の晩年と死に際について解説していきます。

「若山セツ子」とは?簡単に説明

終戦後まもない1946年に4000人の中から選りすぐられた48人。

栄えある東宝ニューフェイスの第一期生として女優生活をスタートさせています。

戦後早々に映画・主題歌ともに大ヒットとなった『青い山脈』に出演。

黒縁のロイド眼鏡をかけた「笹井和子」役が当たり役となりました。

また東宝の女優らしくゴジラ作品にも出演しています。

『ゴジラの逆襲』では主役の婚約者「山路秀美」役で多くのシーンに登場。

モノクロ作品に代表作が多いため本作が最も彼女を見た方も多いのではないでしょうか。



「若山セツ子」の晩年

女優若山セツ子としての晩年はあまり恵まれたものではありませんでした。

1961年に引退するも10年後に女性週刊誌の“あの人は今”的な形で取り上げられて女優復帰を果たしています。

主演の「あおい輝彦」氏の母親役でその父親役の「進藤英太郎」氏を尻にしく恐妻賢母を演じ、登場シーンもそれなりに多く見る事ができました。

しかし諸般の事情から73年に再引退。

これにより女優若山セツ子としての生涯を終え、一般女性「坂爪セツ子」としての人生を歩む事になりました。



「若山セツ子」の死に様

1985年5月9日10時、東京都調布市の山田病院で逝去。

55歳没。

死因は首吊り自殺によるものだと伝えられています。

「若山セツ子」の死に様の信憑性

1960年代に患った精神的疾患は良くなったり悪くなったりを繰り返していた様です。

しかし1984年に入り姉と母が立て続けに死去した事から、精神状態は悪化の一途を辿っていく事になりました。

姉の息子とは形式上同居していたもの交流はないに等しく、保健所の勧めから精神病院へと入院する事になったと言います。

入院生活中も不安定な挙動を見せていた証言はされていますが、拘束はされていなかったようです。

看護婦に治療を依頼。

その準備で誰もいなくなったのを見計らって首吊り自殺を敢行しましました。

当然ながら看護婦がそれほど時間を経たずに部屋に戻ってきて彼女を発見しています。

蘇生措置が施されるも完全に蘇生する事はありませんでした。

現場検証に訪れた刑事が55歳とは思えない老婆の様だったと明かした事でしょう。

ガリガリに痩せ、風呂にも入れて貰えなかった様で薄汚れた姿だったと言われます。

事件性はないと判断されますが、精神病院における不祥事は現代でも多発。

実際患者を野放しにしている病院も散見されるだけに彼女がどんな扱いを受けていたかは不明です。

まとめ

1985年5月9日10時頃に東京都調布市にかつて存在した山田病院で亡くなっています。

55歳没。

カーテンレールに紐を結びつけての首吊り自殺でした。

60年代から精神的疾患に苦しんでおり、映画監督である元夫の浮気に発端となった離婚が彼女を精神的に追い詰めたとも言われ、元夫もそれを認めていますが真偽は不明。

精神が不安定なのは恒常的になり、初回引退10年後の復帰時にも回復していなかったとされます。

現場検証に訪れた刑事が疑問に思うほどの老け込み具合で1ヶ月の入院中に入浴もさせて貰えなかったのではと疑問に思うほど。

当時事件性はないと判断されたそうですが、きちんとケアされていたか疑問を持つ方は多いと思われます。

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