谷干城は土佐藩出身で、軍人から政治家に転身しました。
谷干城の晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。
谷干城とは?
谷干城は、土佐の儒学者であった谷景井の三男として誕生します。
江戸で学んだ後、帰郷して文武館の史学助教となります。
尊王攘夷に傾倒し、その後倒幕運動に参加するようになりました。
戊辰戦争では、大軍監として活躍します。
明治4年には兵部省の役人となり、翌年には陸軍の少将となりました。
そして、明治6年には熊本鎮台の司令長官に任命されています。
西南戦争の折には、西郷隆盛率いる勢力から熊本城を死守するなど政府の勝利に貢献しました。
谷干城の晩年
谷干城は西南戦争後、陸軍士官学校長や学習院長、華族所学校長などの役職を歴任します。
そして華族令が制定されると、子爵となりました。
1885年に内閣が創設されると、内閣総理大臣となった伊藤博文の元で農商務大臣に就任します。
政治家に転身したわけですが、この時はまだ現役の軍人としても活動していました。
本格的に政治家の道を歩み始めるのは、1年3か月に及ぶ欧州旅行から帰ってからです。
帰国した谷干城は、内閣が進める欧化政策を批判しました。
当時の外相であった井上馨の条約改正案に反対し、大臣の職を辞任します。
その後、1890年に行われた貴族院議員選挙において当選し、政界に復帰しました。
貴族院では土佐派の重鎮として存在感を示します。
日清戦争や日露戦争には、反対の立場でした。
谷干城の最期
谷干城は、1911年に75歳で死去しています。
死因は明確ではありませんが、75歳という年齢を考えると病死であろうと考えられます。
谷干城をめぐる逸話
谷干城が倒幕論者となった背景には、後藤象二郎や坂本龍馬の影響があるといわれています。
攘夷思想を抱いていた谷でしたが、後藤象二郎や坂本龍馬と知り合いその考えを変化させます。
そして土佐藩の倒幕派の中心となり、薩摩藩との薩土密約を結びます。
谷干城は坂本龍馬のことを非常に尊敬していて、龍馬が暗殺された時には真っ先に現場に駆けつけています。
龍馬と一緒に襲撃を受けた中岡慎太郎から襲われた時の状況を聞き取ったのも谷干城です。
中岡はその後、亡くなりました。
そして、龍馬暗殺の犯人探しに執念を燃やしたといいます。
様々な調査の結果、谷干城は龍馬を襲撃したのは新選組と考えるようになりました。
戊辰戦争の際に新選組のリーダーであった近藤勇を捕らえた時には、詳しい取り調べを行うことなく斬首刑にしています。
ただし、龍馬暗殺犯については諸説あり、現在では新選組ではなく幕府の治安維持組織であった見廻り組の犯行という説が濃厚です。
まとめ
谷干城は軍人として戊辰戦争や西南戦争で活躍しますが、晩年には政治家に転身しています。
伊藤博文内閣の元で農商務大臣に就任しましたが、外相の井上馨と意見が対立し辞任しました。
そして、1911年に75歳で亡くなっています。