この記事では、「藤井将雄」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「藤井将雄」とは?
藤井将雄とは佐賀県出身のプロ野球選手で、主に中継ぎ投手として活躍しました。
高校を卒業した後は、日産自動車九州でエースとして活躍します。
社会人日本野球選手権にも出場しています。
1994年にドラフト会議で福岡ダイエーホークスから4位指名を受け入団しました。
元々は先発投手で完封を記録したこともありますが、伸び悩んだため中継ぎに転向しています。
1999年には福岡ダイエーホークスの初優勝に貢献しました。
「藤井将雄」の晩年
「藤井将雄」は晩年にも、中継ぎ投手として活躍しています。
1999年には中継ぎで26ホールドを記録しており、パシフィック・リーグで最多ホールド記録を樹立しました。
藤井の活躍もあり、その年の福岡ダイエーホークスは接戦に強い試合展開を繰り広げています。
藤井は炎の中継ぎ投手と呼ばれていました。
セントラル・リーグの覇者である中日ドラゴンズと日本シリーズで対戦した時にも、中継ぎ投手として2試合に登板しました。
チームは日本一の座に輝いています。
「藤井将雄」の死に様
藤井将雄は1999年、日本シリーズの前に行われた身体検査で異常が見つかります。
検査の結果、肺がんと診断されます。
その時点ではすでに末期の状態で、余命3カ月でした。
しかし、家族の意向もあって末期がんであることは本人には伝えらられず、間質性肺炎という病名が伝えられています。
家族はマウンドに立つという気持ちがあれば病気を克服できるのではないかと考えたからです。
翌年には入退院を繰り返しますが、2軍の試合に登板することはありました。
しかし、9月にはベッドから起き上がれない状態に悪化します。
福岡ダイエーホークスは翌年にも優勝を果たしており、その姿を見届けた後で亡くなりました。
まだ、31歳という若さでした。
「藤井将雄」の死に様の信憑性
藤井将雄は亡くなる直前、チームメートやファンに向けたメッセージを残しています。
そのメッセージにはこれまでの野球人生に対する感謝の気持ちが綴られており、福岡ダイエーホークスをこれからも応援してほしいという言葉で結ばれています。
そのメッセージは、亡くなった後に公開されました。
まとめ
藤井将雄は福岡ダイエーホークスで中継ぎ投手として活躍し、優勝にも貢献しました。
しかし、肺がんを患い31歳という若さで亡くなります。