「力道山」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「力道山」の死に際とは?日本の人物

アントニオ猪木、ジャイアント馬場を育てた日本プロレスの父力道山とは?晩年、急逝した理由について解説。

この記事では日本プロレスの父とも言える力道山の晩年と散りぎわについて解説します。

「力道山」とは?簡単に説明

力道山はリングネームとなり、百田光浩が本名。

息子は二人とも全日本プロレスでプロレスラーとして活躍しました。

現在の北朝鮮出身で16歳で二所ノ関部屋から初土俵を踏みます。

力士での最高位は関脇で病気で廃業をした後にプロレスラーに転身しました。

その後ハワイでプロレス修行後日本プロレスを旗揚げします。

昭和を振り替える際に必ず取り上げられる木村政彦とのタッグを組んでのシャープ兄弟との死闘は伝説になりました。

プロレスラーの範疇を越えた存在になりました。



「力道山」の晩年

第一次プロレスブーム後の経営危機を乗り越え、再度日本人vs外国人の図式の路線のワールド大リーグ戦が興業的に大当たりとなり、力道山はプロレスラーだけではなく実業家としての一面も見せはじめます。

積極的な投資を行い、現在の赤坂にプロレス専用常設会場通称リキ・パレスを建設。

東京オリンピックにあわせて建設された国立競技場を凌ぐ建設費用がかかったリキ・パレスは複合商業施設として斬新なものとなりました。

プロレスラーとしてのピークは過ぎたもののワールド大リーグ4連覇と健在、まさしく我が世の春を過ごしていたと言えるでしょう。



「力道山」の死に様

力道山は酒癖が悪いうえに手も早く、興奮剤を常用していました。

苛烈な虐めに等しいシゴキを付き人のアントニオ猪木にしていたのは有名ですが、もともと力士時代からところ構わず暴れること、素行が良くなかったことも手伝い、様々なトラブルに巻き込まれています。

それが祟り、63年12月8日赤坂のナイトクラブで暴力団員村田勝志に腹部を刺されてしまうのでした。

警察沙汰にはせず知り合いの医師のいる赤坂の山王病院に入院します。

手術は成功したものの化膿性腹膜炎を起こし、入院から1週間後の12月15日に呆気なくこの世を去りました。

39歳もしくは44歳だったと言われています。

「力道山」の死に様の信憑性

力道山の死去に関して書かれて信憑性が高かったのは80年代に週刊少年サンデーで連載された「プロレススーパースター列伝」によるものでした。

アントニオ猪木が力道山の死因を入院中にも関わらず寿司やサイダーを暴飲暴食したが故の腹膜炎と解説したように描かれており、この話を信じていた方も多かったと言えるでしょう。

90年代に入ると加害者への直接取材で経緯がより詳しく知らされるようになりました。

亡くなった当日は確かに腹膜炎による腸閉塞を起こし再手術を行い、手術自体は成功したものの6時間後に容態が急変。

穿孔性化膿性腹膜炎が死因となっています。

力道山の手術時のカルテが紛失したことから、新たに医療ミス説浮かび上がりましたが既に四半世紀前のことで、真相は不明です。

まとめ

63年12月8日力道山は赤坂のナイトクラブで暴力団とトラブルで傷害沙汰を起こします。

自分の肉体を過信し、刺されて2日目の悪化した状態で入院しました。

その後腹膜炎による腸閉塞を起こし再手術。

手術は成功するもその6時間後に容態が急変して死亡しています。

公表の年齢によれば39歳没ですが、実際の年齢は不明で44歳だったとも言われています。

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