「大政奉還」や「自由民権運動」に大きく関わった「後藤象二郎」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「後藤象二郎」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「後藤象二郎(ごとう しょうじろう)」とは?簡単に説明
「後藤象二郎」は土佐藩士として生まれ、義理の叔父である「吉田東洋」により育てられました。
「東洋」の後押しもあって藩政に参加するも、その「東洋」が尊王攘夷派「土佐勤王党」に暗殺されると失脚します。
その後、藩政に復帰を果たした「後藤象二郎」は「坂本龍馬」と出会ったことで、共に「大政奉還」を目指すことになりました。
明治維新後、大阪府知事や参議などの重職を歴任しますが、征韓論に敗れたことにより辞職します。
辞職後は「民撰議員設立建白書」に名を連ね、「自由党」を結成するなど自由民権運動に身を投じるのでした。
「後藤象二郎」の晩年と最期
明治20年(1887年)頃になると、自由民権運動のひとつである「大同団結運動」の指導者として活動します。
政府は保安条例によってこれらを弾圧しますが、「後藤象二郎」は逆に「黒田清隆」内閣への入閣を打診され、逓信(郵便や通信)大臣へと就任しました。
歴代内閣で要職を務めつつ、体制変革のために尽力しますが、明治27年(1894年)に起きた収賄事件の責任を負い、大臣の職を辞任しました。
そして、明治29年(1896年)に心臓病を患い、療養のために箱根で過ごすも、翌明治30年(1897年)の8月4日に享年60歳で死去しました。
「後藤象二郎」の死に様の信憑性
死因は心臓病とされています。
「後藤象二郎」にまつわるエピソード
最後に「後藤象二郎」にまつわるエピソードをご紹介します。
大政奉還建白書
「後藤象二郎」は船に同乗していた「坂本龍馬」から「大政奉還」を含めた画期的な政治要綱「船中八策」を提示されます。
その後、「後藤象二郎」は「大政奉還建白書」を土佐藩主「山内容堂」へ提出し、「容堂」を通して将軍「徳川慶喜」へと進言され、「大政奉還」は成立しました。
日本人初のルイ・ヴィトン購入者?
「後藤象二郎」は渡欧した際に、ルイ・ヴィトン本店にて鞄を購入した記録が顧客名簿に残っています。
一時は日本人で初めてルイ・ヴィトンを購入した人物とされていました(※後に誤りであることが判明)。
地震が大嫌い
豪快な人物として評される「後藤象二郎」ですが、人一倍地震が嫌いだったようです。
周りが気付かないほどのわずかな揺れにも反応し、屋外へと飛び出す始末だったとか。
まとめ
「後藤象二郎」は土佐藩士であり、「大政奉還」成立に大きく貢献した人物です。
明治政府では重職を歴任しますが、征韓論に敗れて下野した後は、自由民権運動のために活動します。
「大同団結運動」を主導した後に入閣し、体制を内側から変えようと尽力しました。
収賄事件の責任を負って大臣を辞任後、心臓病を患い、明治30年(1897年)の8月4日に60年の生涯を終えました。