「大宝寺義増」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「大宝寺義増」の死に際とは?日本の人物

大宝寺義増は大宝寺家の第16代当主で、戦国時代に上杉謙信に臣従した武将の一人です。

大宝寺義増の晩年と最期を紹介します。

大宝寺義増とは?

大宝寺義増は従兄弟である大宝寺晴時に子がなかったため、大宝寺家の跡を継ぐことになりました。

義増が家督を継ぐために奔走したのは、大宝寺家の重臣であった土佐林禅棟という人物です。

大宝寺氏は晴時の時代にはすでに勢力が衰えており、義増が跡を継いでも領内では紛争が絶えませんでした。

隣国の本庄氏や小野寺氏の助力を受けたり、上杉謙信に臣従することで何とか命脈を保っていたといわれています。



大宝寺義増の晩年

大宝寺義増の晩年に起きた大きな出来事といえば、本庄繁長の乱です。

本庄繁長は永禄11年、上杉謙信に対して謀反を起こします。

本庄氏は越後北部の揚北衆と呼ばれる国人領主で、鎌倉時代からこの地域を治めてきたという自負があるため強い独立心を持っていました。

本庄繁長は、上杉謙信の命令によって長尾藤景と景治の兄弟を殺害します。

それにより恩賞を与えられると思っていたのですが、恩賞がなかったために不満を募らせていました。

そこで、他の国人衆にも呼びかけ謀反を企てたのです。

本庄氏と結びつきが深かった大宝寺義増は、その呼びかけに応え繁長に味方しました。

しかし、反旗を翻した相手は軍神と恐れられるほど戦上手の上杉謙信です。

相手が悪かったとしか言いようがありません。

繁長に呼びかけられた国人衆の多くは、謙信の側についています。

謙信はまず義増のいる庄内へと兵を進めたので、義増は上杉軍の猛攻を受けることになりました。

結局、降伏することになってしまいます。



大宝寺義増の最期

本庄繁長の乱では、大宝寺義増は上杉謙信によってあっけなく降伏させられてしまいます。

その際、義増はわが子の義氏を人質として謙信の元に差し出します。

そうすることで和議を結び、命を奪われることはありませんでした。

その後、本庄繁長の乱は鎮圧されます。

そして翌年、義増は義氏に家督を譲ることになりました。

義増は隠居して、天正9年に亡くなっています。

家督を譲る際に亡くなっていたともいわれますが、はっきりしたことは分かりません。

大宝寺義増をめぐる逸話

大宝寺義増がなぜ上杉謙信に謀反を起こした本庄繁長に加担したのかというと、本庄氏との強い結びつきがあります。

大宝寺氏は最上氏の一族である清水氏と争っており、合戦に勝利して村上郡まで進出しますが最上軍に反撃されて撤退を余儀なくされていました。

そこで自立するために頼ったのが本庄氏との同盟関係でした。

そういった事情もあり、繁長からの謀反の呼びかけに応えざるを得なかったのかもしれません。

まとめ

大宝寺義増は晩年、本庄繁長の乱の際に本庄氏に加担して挙兵します。

しかし、上杉謙信にすぐに軍勢を差し向けられ、降伏することになります。

我が子を人質に差し出し、翌年には家督を譲ることとなりました。

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