モーリス・ラヴェルの死因は?
「モーリス・ラヴェル」とは?簡単に説明
1875年にフランス領バスク地方で誕生したモーリス・ラヴェルは、バレエ音楽「ボレロ」を作曲したことでも知られている著名なフランスの作曲家です。
父の影響によりわずか6歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学んだラヴェルは、14歳でパリ音楽院に進学し、一旦は卒業しますが、再度復学して合計14年間という長期間に渡って音楽院に在籍しています。
25歳の時には、優勝すれば留学費用と奨学金を得ることができるローマ大賞を目指すものの5回も落選してしまい、すでに数々の名作を世に送り出していたラヴェルが予選落ちするのはおかしいという声が噴出したことでラヴェル事件騒動が発生しています。
その後39歳の時に、第1次世界大戦に志願兵として出兵したラヴェルは、兵役を続けていた3年後に最愛の母を亡くし、母の死以降は3年間にわたって新曲を書くことができないほどのショックを受けてしまいます。
母の死を引きづったまま1928年に初めてアメリカに渡ったラヴェルは、4か月にもおよぶ演奏旅行を敢行し、オックスフォード大学の名誉博士号を授与されるほどの成功を収めますが、前年の1927年ごろから記憶障害や言語症などに悩まされていました。
そしてついに1937年12月28日、血腫や脳腫瘍などを併発したラヴェルは、手術後昏睡状態に陥ったまま62年間の生涯に幕を閉じることになります。
「モーリス・ラヴェル」の晩年
モーリス・ラヴェルは40代後半ぐらいから不眠症に悩まされており、52歳になった1927年頃には、軽度の記憶障害や言語症などの症状も少しづつ出てきていたと言います。
1932年にはパリでタクシーに乗っている時に、交通事故に遭ってしまい、この事故を機にさらに症状が悪化し始めていきます。
事故の影響で手足を上手く動かす事さえ難しくなってきたラヴェルは、それに加えて言葉もスムーズに話す事ができなくなってしまい、これ以降の作曲自体は口述で行うほどの状況でした。
60歳を過ぎる頃には、自身が作曲した「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴いても、自分の曲であることさえ分からなくなってしまっており、記憶障害は悪化の一途をたどっていました。
「モーリス・ラヴェル」の死に様
1936年頃になると、周囲との接触を避けるようになっていたモーリス・ラヴェルは、一日中小さな家の庭で椅子に座ってぼんやりしていることが増えていきました。
何もしない無感動な時間が増えていくと共に、突発的な癇癪を起す頻度も多くなっていたラヴェルは周囲を困惑させ、弟や友人たちは様々な医者に見てもらうように促すようになります。
そして有名な神経学者により、失語症や理解障害、観念運動失行などの脳神経学障害と診断され、1937年12月17日に手術を受けたラヴェルは手術後、一時的に意識を回復したものの、その後は昏睡状態のまま、12月28日未明に62歳で亡くなってしまいます。
「モーリス・ラヴェル」の死に様の信憑性
1937年12月、血腫や脳腫瘍などの専門家である脳外科医クロヴィス・ヴァンサンの執刀のもとで手術を受けたモーリス・ラヴェルでしたが、事前に診断されていた腫瘍も出血も発見されることはなく、脳の一部分に若干の委縮が見られていたのみでした。
処置に困ったため、万が一の可能性に賭けて手術を行った主治医は、ラヴェルが水頭症を発症していないことを確認すると萎縮していた脳を膨らまそうとして生理食塩水を注入したと言います。
この手術により一時的に容体は改善しましたが、まもなく昏睡状態に陥り、意識が戻らない状態のまま12月28日に死去してしまいました。
まとめ
オーケストレーションの天才といわれたモーリス・ラヴェルが残した名曲の数々は、色褪せることなく今後も聴き継がれていく事でしょう。