この記事では、「ピエル・パオロ・パゾリーニ」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「ピエル・パオロ・パゾリーニ」とは?
ピエル・パオロ・パゾリーニとはイタリアの映画監督で、宗教やセックス、資本主義社会などを題材とする問題作によりセンセーショナルを巻き起こしています。
パゾリーニは脚本家として複数の映画に携わった後、1961年に長編映画「アッカトーネ」で映画監督としてデビューしました。
1964年にはフランスとイタリアの合作映画「奇跡の丘」を発表し、ヴェネツィア国際映画祭で審査員特別賞を受賞しています。
「ピエル・パオロ・パゾリーニ」の晩年
ピエル・パオロ・パゾリーニは晩年に、「デカメロン」「カンタベリー物語」「アラビアンナイト」という「生の三部作」と呼ばれる作品を発表しています。
「カンタベリー物語」はベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞していますし、「デカメロン」も銀熊賞を受賞しています。
「アラビアンナイト」もカンヌ国際映画祭で審査員グランプリを受賞するなど高く評価されました。
これらの作品によって、パゾリーニは世界的な映画界の巨匠と呼ばれるようになります。
「ピエル・パオロ・パゾリーニ」の死に様
ピエル・パオロ・パゾリーニが亡くなったのは、1975年11月2日のことです。
暴行を受けた末に惨殺されるという悲劇的な死でした。
享年53です。
遺作となったのは、マルキ・ド・サドの小説「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校」を原作とする「ソドムの市」でした。
性的に過激な描写が多い映画で、パゾリーニの死後に公開されましたが欧米では上映が禁止されています。
「ピエル・パオロ・パゾリーニ」の死に様の信憑性
ピエル・パオロ・パゾリーニを殺したのは、ピーノ・ペロージという少年です。
「ソドムの市」に出演しており、17歳でした。
パゾリーニとは性的な関係にあったとされます。
喧嘩になり、最後は車で轢き殺されてしまったのです。
しかし、本当は暗殺されたという説もあり、真実はよく分かっていません。
ファシストに殺されたとか、同性愛者だから狙われた、宗教を愚弄しから復讐を受けた等様々な説があります。
その死を題材にした映画や小説等も制作されました。
まとめ
ピエル・パオロ・パゾリーニは晩年、「ソドムの市」という映画を制作していました。
映画の制作を終えた後、暴行の末に惨殺されるという非業の死を遂げています。
53歳でした。