幕末の動乱のきっかけとなった大事件「黒船来航」でお馴染みの「マシュー・ペリー」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「マシュー・ペリー」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「マシュー・ペリー」とは?簡単に説明
「マシュー・カルブレイス・ペリー」(Matthew Calbraith Perry)とはアメリカの軍人であり、日本では「黒船」を率いて浦賀に来航し、幕府に開国要求をした人物として有名です。
軍人の父の下に生まれ、自身もわずか14歳でアメリカ海軍に入隊しました。
大佐や代将へ昇進後、1846年の「アメリカ・メキシコ戦争」勃発に際し、「ミシシッピ号」艦長兼本国艦隊副司令を務め、やがて本国艦隊司令官へと昇り詰めます。
この「ミシシッピ号」に乗って後に「マシュー・ペリー」は日本へ来航することになるのでした。
「マシュー・ペリー」の晩年と最期
1852年、「マシュー・ペリー」はアメリカ海軍の東インド艦隊司令長官に任じられると共に、当時、対外政策として鎖国を行っていた日本に対する開国任務を与えられました。
同年11月24日、米国大統領の新書を携えた「マシュー・ペリー」を乗せて、「ミシシッピ号」以下4隻の艦隊は日本へ向けて出航します。
バージニア州を発った艦隊は大西洋からアフリカ大陸、インド洋から上海へ航海し、琉球王国、小笠原諸島を経た後、1853年の7月8日、ついに浦賀へ到達するのでした。
「マシュー・ペリー」は開国を迫りますが、江戸幕府は将軍が病気に伏していることを理由に1年後に回答する旨を伝えます。
これを了承した「マシュー・ペリー」は一旦香港へと引き返しますが、半年後の1854年2月13日に再び浦賀へ現れました。
ペリーが去って間もなく、日本では将軍「徳川家慶」が病没してしまった上に、世論では異国を打ち払うべしとのいわゆる「攘夷思想」の気運が高まりつつあり、開国か鎖国かで国内情勢は揺れていました。
「マシュー・ペリー」がわずか半年で再び来航したことには、こうした情勢の混乱を利用して、外交を有利に進めるためだったと云われています。
そして、1カ月に及ぶ協議を経て、同年3月31日、日本はアメリカと「日米和親条約」を締結し、200年以上に渡る鎖国体制に終止符が打たれました。
日本開国の任務を完遂した「マシュー・ペリー」はアメリカへの帰路に就き、海軍退役後はアメリカ政府の要請で日本遠征記などの出版に携わります。
そして、帰国から数年後の1858年3月4日に享年63歳で死去しました。
「マシュー・ペリー」の死に様の信憑性
死因については不明ですが、晩年はアルコール依存症や痛風、リウマチに苛まれていたと伝わっています。
まとめ
「マシュー・ペリー」はアメリカ海軍の軍人であり、日本史において「黒船」を率いて日本へ来航したことで知られる人物です。
1854年に「日米和親条約」締結を成功させた後はアメリカへと帰国し、最晩年はアメリカ政府の要請で日本遠征記などの編纂に従事しています。
そして、1858年3月4日に63年の生涯を終えました。