「ソクラテス」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「ソクラテス」の死に際とは?世界の人物

「ソクラテス」とは?ソクラテスの晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「ソクラテス」とは?簡単に説明

ソクラテスはアテナイ(現在のアテネ)出身の古代ギリシアの哲学者です。

紀元前470年頃に生まれ、紀元前399年に亡くなっています。

ソクラテスは、西洋哲学を本格的に探究し始めた人として「哲学の父」あるいは「哲学の祖」と言われ、プラトンやアリストテレスに大きな影響を与えた人物です。

また、孔子、釈迦(ブッタ)、イエス・キリストとともに「四聖」の一人に数えられています。

しかし、彼の探求方法は人々の虚名を剥ぐことに繋がり、権力者の恨みや嫉妬を買うことになり、「ソクラテス事件」へと発展することになります。



「ソクラテス」の晩年

ソクラテスは「アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた」涜神罪(神を冒涜した罪)という罪状で詩人のメレトス、政界の有力者アニュトス、弁論家代表のリュコンらによって公訴されます。

これが紀元前399年に古代ギリシアの都市国家アテナイで起こった「ソクラテス事件」です。

この時ソクラテスはおよそ70歳になっていました。

この裁判は500名の市民からなる裁判員による古代の裁判員裁判であり、彼はいわゆる「ソクラテスの弁明」を行ないますが、僅かの差で有罪判決を受けます。

さらに量刑に関する弁明を行なうも、彼に同情的な態度を示していた裁判員からも反発を受け、死刑判決を受けることになります。



「ソクラテス」の死に様

ソクラテスはアテナイで行なわれた「ソクラテス事件」の裁判で紀元前399年2月15日に死刑判決を受けます。

通常は死刑宣告されたその日に死刑が執り行われるのが常でしたが、アポロンを祀る祭りがあったため、処刑は祭りが終わる1ヶ月後に延期されます。

その間に旧友のクリトンは脱獄を提案します。

当時のアテナイの牢獄の管理は杜撰で、担当の役人を丸め込めば簡単に脱獄できたようです。

しかし、ソクラテスはこれを拒否します。

「悪法もまた法なり」という信念がもとにあったからです。

そして1ヶ月後、予定通りに死刑が執行されます。

当時の死刑執行は毒杯を飲むというやり方でした。

弟子たちに囲まれて最後の時を迎えようとしているソクラテスに担当の役人は「ドクニンジン」という毒の入った毒杯を彼に渡し、「飲んだら足が重くなるまで歩くように」と言うのでした。

ソクラテスは落ち着いた様子で静かに毒杯を飲み干します。

すると彼は次第に身体の感覚を無くし、徐々に冷たく堅くなっていって最後には動かなくなります。

「ソクラテス」の死に様の信憑性

「ソクラテス事件」で死刑判決を受け、毒杯を飲んで刑を執行されたことは弟子のプラトンによって書かれた「ソクラテスの弁明」によっても信憑性は高いでしょう。

ただし、彼の死の様子には疑問が残っています。

苦しむこと無く、安楽死のように尊厳を保った死のように伝わっていますが、「ドクニンジン」の中毒症状としては嘔吐感、神経麻痺、呼吸困難が起こり、相当の苦しみを伴う壮絶な死を引き起こすという記録もあるからです。

果たして実際はどうだったのでしょうか。

真実は不明です。

まとめ

ソクラテスの著書は残っていないため、彼の思想や生涯はプラトンが書いた有名な「ソクラテスの弁明」など、彼の友人や知人が書いた書物によりうかがい知れます。

彼の数々の名言として「無知の知」「善く生きる」「徳は知である」「汝自身を知れ」などがあります。

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