20世紀最後の印象派「トレンツ・リャド」の死に際とは?
この記事ではトレンツ・リャドの晩年と死に際について解説していきます。
「トレンツ・リャド」とは?簡単に説明
「ホアキン・トレンツ・リャド」はスペインのカタルーニャ地方の美しい海岸沿いの街バダロナ出身の画家です。
9歳から絵を書き始め、本格的に絵画を学びはじめたのは高等学校の絵画部門に所属してからでした。
しかしその時点で才能を遺憾なく発揮。
20歳での卒業を待たずに課程をいち早く終え、教授会の推薦を得て助教授として指導側に回る規格外な面を見せています。
卒業後は世界的なリゾート地として知られるマジョルカ島に拠点を移しました。
以降世界に名の知られる画家として活躍していく事になります。
「トレンツ・リャド」の晩年
晩年は日本との関わりが多く初来日から4年で3度の来日を果たしました。
それは89年にワールドプロモーションの契約を日本のギャラリーと結んだからだと言っていいでしょう。
90、92、93年と3回の来日と同時に個展を開催。
付随して日本に関係のある仕事をこなしています。
その代表が『ハーグ・ズータメア国際園芸博覧会』いわゆる『フロリアード1992』の日本版公式ポスターと記念版画だと言っていいでしょう。
当時は花博が大阪・鶴見緑地公園で行われていました。
同じ国際園芸博覧会のイベントで10年に1度のイベント。
このため大々的なプロモーションが当時行われていたため、関西に住んでいた方はポスターを目にした方も多いのではないでしょうか。
また日本でUNICEFと協力してアジアの恵まれない子供を救うための“art aid”のポスターをも手掛けました。
こうした晩年の縁の深さから、後年日本で2つの美術館がオープンする事になったとも言えるでしょう。
「トレンツ・リャド」の死に様
1993年10月6日、スペイン・バレアレス諸島州マジョルカ島パルマ市で逝去。
47歳没。
死因は大動脈瘤とだけ記載された文献が多く、大動脈瘤破裂なのか大動脈瘤解離によるものかは不明です。
「トレンツ・リャド」の死に様の信憑性
リャド氏の死についてはほとんど詳細が公表されていません。
スペイン最大新聞『El Pais』紙の当時の記事、カタルーニャ自治体で最も良く読まれている新聞『La Vanguardia』でも死に関する詳細は見つける事はできませんでした。
まとめ
1993年10月6日、スペインバレアレス諸島州マジョルカ島パルマ市で死去。
47歳没。
死因は大動脈瘤による突然死とされていますが詳細は不明です。
1989年に日本のギャラリーとプロモーションに関する契約を結んだ事もあり、90年の初来日から93年までの短期間で3回の来日をしています。
同様に仕事も多く個展はもとより『art aid』や『フロリアード1992』の日本版公式ポスター製作など晩年は非常に日本と縁のある人物でした。