おいしい人生をありがとう「宮崎恭子」の散り際とは?
この記事では宮崎恭子の晩年と散り際について解説していきます。
「宮崎恭子」とは?簡単に説明
名俳優「仲代達矢」氏の伴侶として知られており、結婚後は仲代性を名乗ったほか、脚本家として「隆巴」氏を名乗りました。
また妹は元フジテレビアナウンサーの「宮崎総子」氏で姉妹船を地で行く才媛の美女姉妹として知られています。
夫が『無名塾』を主宰、恭子氏が創立してはじまった俳優養成所は現在に至るまで有名、無名関わらず多くの俳優を輩出。
代表する出身者としては「役所広司」が挙げられます。
「宮崎恭子」の晩年
脚本家としての活躍はやや控えめになったもの自身が創立した無名塾において新たなプロジェクトを推進しています。
それは既存の俳優養成コースとは一線を引いた「文芸演出部」を1993年に創設。
俳優養成コースと同様に厳しいセレクションによって選抜を経て、選ばれた者のみが恭子氏に師事できる資格を有するものでした。
しかしこのプロジェクトはわずか4年で頓挫。
その理由は文芸演出部始動から、わずか1年半後に彼女を病魔が襲ったからです。
「宮崎恭子」の死に様
1996年6月27日3時27分東京都文京区の入院先にて逝去。
65歳のことでした。
死因は前年に膵臓にがんが転移しており、その進行によるものだと言われます。
「宮崎恭子」の死に様の信憑性
夫の仲代氏が90歳を過ぎてなお健在なのは恭子夫人の遺言によるものが大きいと言えるでしょう。
亡くなってから数年経っても彼女が遺した手紙により心を奮い立たされたとも言われます。
闘病生活の始まりは無名塾の創立20周年の1995年のこと。
節目の年における『ソルネス』夏公演中に体調不調から病院を受診すると癌が発覚。
切除手術自体は成功した後に、新たに膵臓に癌が発見されてしまいました。
膵臓癌は予後の悪さで知られるとおりです。
進行は進んでおり余命半年の宣告を受けてしまうのでした。
この余命宣告を受けて、以降彼女は遺書として多くの手紙を仲代氏に遺したとされます。
96年に刊行された『大切な人』は死の直前まで書き綴ったもの。
99年には闘病生活の傍らに書き綴ったイラスト『仲代達矢さまおいしい人生をありがとう』が画文集として出版されており、人生の幕引きを直前に控えた彼女の想いを知ることができます。
同著のタイトル「おいしい人生ありがとう」は彼女の遺言でもありました。
また余命宣告はされていたものわずかな一縷の望みをかけていたのは間違いありません。
健在ならば96年秋の無名塾公演『リチャード3世』で41年ぶりの夫婦競演が予定されていました。
まとめ
1996年6月27日3時27分、東京都文京区の入院先で逝去。
65歳没。
死因は前年に見つかった膵臓癌の憎悪によるものだとされます。
前年夏の無名塾創立20周年公演中に体調不良で検査を受けて癌が発覚。
その後の手術で切除には成功したもの新たに膵臓への癌が転移が確認され、余命半年の宣告を受けてしまいました。
前向きに病気と向き合うとともに仲代氏に多くの手紙を書き記したとされます。
余命宣告はされたもの回復に一縷の望みをかけて、秋には俳優座時代以来41年ぶりの夫婦競演が予定されていました。