「明智光秀」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「明智光秀」の死に際とは?日本の人物

「明智光秀」(あけちみつひで)」とは?

明智光秀の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。

「明智光秀」とは?簡単に説明

明智光秀は美濃出身の戦国武将とされていますが、実はその実態は詳しくわかっていません。

若いころは全国を放浪しながら鉄砲技術を学んだり、和歌をはじめとした教養を身につけることに努力を惜しまなかったようです。

そうした努力が身を結び、やがて織田信長に見出だされ、信長に仕えます。

信長に仕えてからは家臣団一の出世を遂げますが、1582年(天正10年)6月2日未明、突如光秀は本能寺に滞在していた信長を急襲し、信長を自刃に追い込みます。

しかし、異変を聞いて急ぎ戻ってきた秀吉と山崎で戦いますが、光秀は破れ、敗走途中、土民に襲われ自刃します。

本能寺の変からわずか11日間の出来事です。



「明智光秀」の晩年

信長に仕えた光秀は、信長家臣団の中でも他の追随を許さないほど異例の大出世を果たします。

しかし、信長の信頼が最も厚い家臣としての地位を確立していく一方、信長と光秀の間に確執が生まれてきたような記述が残る史料もあり、晩年には本能寺の変の前触れを予感させる出来事が次々と起こり始めます。

京に招待していた徳川家康の接待役を解任された光秀は、急遽、中国攻めをしていた秀吉の応援に行くよう命令され、その準備にかかります。

そして中国攻めに向かう途中、進路を京に変え、信長が宿泊する本能寺を急襲します。



「明智光秀」の死に様

山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀は勝龍寺城に逃げ込みますが、この城は規模が小さく秀吉の大軍を支えることはできないため、溝尾庄兵衛ら少数の近臣とともに暗闇に紛れて城を脱出し、近江・坂本城を目指します。

しかし、山科の小栗栖あたりに来たところで落ち武者狩りの土民に竹槍で襲われて致命傷を負ってしまいます。

「もはやここまで」と覚悟を決めた光秀は後を託した庄兵衛の介錯により自刃します。

庄兵衛は光秀の首を鞍覆いに包んで竹やぶに埋め、坂本に逃げたとも、この地で自害したとも言われています。

1582年(天正10年)6月13日のことです。

なお、竹やぶに隠された光秀の首は百姓によって掘り起こされ、光秀の首は織田信孝のもとに届けられたと言われています。

なお、歴史上の有名人にありがちな生存説というのが光秀にもあります。

そのうち、最も有名なのが光秀は生き延びて徳川家康の側近・南光坊天海になったという説です。

「明智光秀」の死に様の信憑性

光秀の首が織田信孝の手に渡ったことは「兼見卿記」に記されています。

「兼見卿記」は光秀と親交のあった京都吉田神社の祠官・吉田兼見が書いた日記で、「兼見卿記」は貴重な資料として高い価値を有しており、信憑性も高いとされています。

一方、南光坊天海になったという説は、この説が生まれるきっかけとなった「明智軍記」に記載された複数のエピソードが関係しています。

ただし、この「明智軍記」は創作が多く、資料的な価値は極めて低いとされており、信憑性は低いと思われます。

その他、「東叡山開山慈眼大師縁起」による家康と天海の親しげな様子をあらわしたものや、「明智平」の命名、日光東照宮にある光秀の家紋である桔梗紋の存在などがありますが、いずれも天海説の根拠としては弱いものばかりです。

まとめ

明智光秀は本能寺の変で信長を討った謀反人として有名ですが、近年は本能寺の変に関する真相の解釈や、大河ドラマの主人公として扱われるなどで光秀に対する認識や印象が変わりつつあります。

今後も新たな史料などが発見されて真実に近づいてほしいと思います。

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